受け継がれる印旛沼堀割筋~嘉永期~

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 天保期の堀割普請中止後の「新川」は、嘉永(かえい)4年(1851)には、大和田(おおわだ)橋(大和(やまと)橋)で遮断され、水の流れは上下二方向となり、それぞれ小舟が通行していました。幕府が中止した堀割筋を周辺の村々は交通の「便利」のために維持・管理し、利用していました。
 享保に始まり天明そして天保期と継続された堀割普請の結果として残された「新川」を、幕末・維新期(1868年前後)には、川筋の村々が自発的に守り、受け継いでいきました。

現在の大和橋付近