水没した家屋
明治元年(1868)6月、集中豪雨による悪水(あくすい)(水田より低い場所に溜まる水で農業利用できない水)により、刈り入れ寸前の麦は水に浸かり、植え付けを終わった稲も腐敗してしまいました。印旛沼周辺の農家では「2、3年に一度、米が穫れれば良いほう」と言われたことからも、洪水被害の厳しさ、農民の深刻さが伝わってきます。その後も明治2年・3年の大風雨により、『印旛沼経緯記内編』によれば米の収穫が一粒もない地域があり、平戸村(現:八千代市)では、82俵の年貢に対して、78俵余りが減免になった記録が残っています。
このように頻発する水害に対し、明治政府による利根川の改修工事が始まり、明治8年(1875)にはオランダ人技師ファン・ドールンらを招き、改修計画を進めました。明治29年(1896)の洪水は文化9年(1812)以来の未曾有(みぞう)の洪水とも言われるもので、この洪水を契機に、河川法が制定され、本格的な利根川改修へとつながります。