昭和の水防事業

28 ~ 28 / 41ページ
 昭和10年(1935)・13年(1938)・16年(1941)と大雨による印旛沼の洪水が度々起こります。
 昭和18年(1943)に、印旛沼・手賀沼の周辺農民から、両沼の水を東京湾に放流するための疎水路開削をしてほしいという嘆願書が国へ提出されましたが、戦時下のため有効な手立ては講じられませんでした。
 昭和20年(1945)、太平洋戦争に敗れた日本は、緊急開拓事業を使って国民の食糧難と引き揚げ者の就労問題を解決します。昭和21年(1946)、印旛沼・手賀沼の干拓、土地改良を目的とする「国営印旛沼手賀沼開拓事業」をスタートさせたのです。
 昭和26年(1951)、東京湾の千葉市臨海部埋め立て地に川崎製鐵が進出することが決まり、そのための工業用水が必要となり、印旛沼がその供給の役割を担うことになります。
 昭和35年(1960)には、印旛排水機場が完成し、昭和37年(1962)に水資源開発公団が発足、翌38年(1963)には、農水省から正式に事業が公団に引き継がれます。
 昭和41年(1966)、新川と花見川をつなぐ大和田排水機場(八千代市)、印旛沼と利根川をつなぐ長門川の酒直(さかなお)揚水機場、酒直水門が相次いで完成しました。沼の周辺地域を守る延長38kmの堤防と、印旛沼の水を東京湾に排水するための疎水路(そすいろ)約16.5kmも整備されます。
 この内の上流部が八千代市を流れる新川であり、平戸から大和田の区間の川幅を広げ、川底を深くし、新川の様相は大きく変化しました。以前は勝田から印旛沼に向かって流れていた新川ですが、現在は大和田排水機機場が稼働しないと流れがありません。下流部は花見川とつながり、増水時には東京湾に印旛沼の水が直接流せるようになりました。
 放流時には花見川側の標高が高いため、6基のガスタービンを使って水を吸い上げ、放水します。その能力は、25mプールを3秒で満杯にしてしまうほどです。
 昭和44年(1969)、洪水防止、農業・工業用水を供給する多目的な印旛沼水管理施設が整備され、ここに染谷源右衛門以来の悲願であった印旛沼の洪水対策は、遂に完成を見たのです。

大和田排水機場を花見川側から臨む