市川團十郎と成田山

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 徳川幕府が安定する元禄(げんろく)の世(1600年代末)を迎えた江戸では、庶民文化に花が咲き、歌舞伎(かぶき)や人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)などの芸能に人気が集まりました。その中でも人気を博した歌舞伎役者の市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)(初代)は、跡目を継ぐ男子に恵まれず、故郷に近い成田山に子授け祈願をしたところ、男子を授かることができました。成田の不動明王の霊験(れいけん)に感激した團十郎は、歌舞伎の演目に不動明王を加えるなどし、不動明王の演目は市川家の十八番(おはこ)となります。このころから市川家の屋号は「成田屋」になったといわれます。元禄16年(1703)に上演した「成田分身(ふんじん)不動」は、自らの体験を脚色し、授かった息子の九蔵(きゅうぞう)は不動明王の生まれ変わりという筋書きでした。折しも初めての出開帳が深川で行われ、團十郎の人気と相まって、大勢の参拝者が出開帳に押し寄せたといいます。
 2代目以降も成田山との関係は深まっていきますが、中でも7代目は、小判(こばん)千両を寄進して寺院に額堂(がくどう)を建立したり、成田山のお膝元で奉納芝居を行って地元の人々に歌舞伎を上演するなどしています。現在も、新勝寺の節分行事では毎年市川團十郎家が参加するなど、初代團十郎以来の末永い交流が続いています。

「成田山参詣ノ図」歌川国貞 人物中央が團十郎(初代) (成田山霊光館蔵)