成田街道(佐倉道)の歴史

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 八千代市を東西に横断する現在の成田街道は、古くは中世(ちゅうせい)までその歴史を遡(さかのぼ)ることができます。
 上杉謙信(うえすぎけんしん)が永禄(えいろく)8年(1565)に、小田原北条(ほうじょう)氏と敵対する安房里見(あわさとみ)氏の要請を受けて、越後(えちご)(新潟)から軍勢を引き連れ、北条方の臼井城主(うすいじょうしゅ)、原胤貞(はらたねさだ)を攻撃しました。この時のルートは佐野(さの)、館林(たてばやし)を経由し、原氏の一族と言われる高城(たかぎ)氏が治める松戸の小金城(こがねじょう)を落とした後、意富比(おおい)神社(船橋大神宮)に陣を張ります。ここから現在の成田街道とほぼ同じルートを経て大和田を通り、臼井に陣を構え、臼井城攻めを行いました。
 また文禄(ぶんろく)4年(1595)、森山岡飯田(もりやまおかいいだ)(現:香取市)の柑子(こうじ)みかんを、江戸の徳川家康に献上(けんじょう)する際の記録「伊奈忠次等連署手形(いなただつぐとうれんしょてがた)」が残っており、「さくら・うす井・大わた・ふなはし・やわた・市川・かさい・あさくさ」といった地名が書かれていることからも、戦国期には成田街道の原型はすでにできていたものと考えられます。
 以上のことから成田街道の元となる道は、すでに中世には下総多古(たこ)方面から武蔵国(むさしのくに)方面双方に人や物が行き交う道として機能していたと見てよいでしょう。