大和田宿(部分)『成田名所図会』
大和田宿は大和田村と萱田町(かやだまち)からなる佐倉道の宿場です。『千葉郡誌(ちばぐんし)』には、大和田は鎌倉幕府の守護(しゅご)であった千葉常胤(ちばつねたね)の子孫が移り住んだ集落という伝承が紹介されています。また、萱田村から沿道に移り住んだ人たちが萱田町を起こしたとされています。
大和田宿は正式には、継場(つぎば)や継立場(つぎたてば)と呼ばれます。宿(しゅく)(継場)の役割は、次の宿まで人や物資を送る(継ぎ立てる)ことで、公用で来た幕府の役人などが宿泊する旅籠(はたご)や馬の調達を宿の問屋(といや)が行いました。
そして、一般の旅人の宿泊地でもあることから、飲食や宿泊などで得る収入で、宿に関わる商人などは潤っていました。特に前述の成田山の江戸深川への出開帳(でかいちょう)と、歌舞伎役者市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)の演目「不動明王」の人気が相まって、元禄(げんろく)時代以降は、佐倉道の各宿は多くの参拝客で賑わうようになりました。この頃から、佐倉道は、成田道とも呼ばれるようになります。その結果、成田山を信仰する人たちによる講(こう)が数多く生まれ、江戸や近隣の地域から団体で参拝するようになると、大和田宿の旅籠(はたご)も、それぞれの地域の講専属の宿として機能し、参拝客の独占も行われるようになります。沿道には道案内と成田山への奉納を兼ねた石造りの道標が数多く建てられており、今も往時の賑わいを伝えています。
また、萱田町の長妙寺(ちょうみょうじ)には八百屋(やおや)お七(しち)の墓があります。お七は江戸本郷の八百屋の娘で年の頃(ころ)十七、天和(てんな)2年(1682)の大火で家が焼け、駒込正仙寺(しょうせんじ)に身を寄せたお七は、寺小姓(てらこしょう)の庄之助(しょうのすけ)と恋仲となります。家に戻ったお七は、庄之助恋しさのあまり、火事があればまた会えると思い込み、放火してしまします。当時、放火は重罪であったためお七は処刑され、その亡骸(なきがら)は大和田に住むおばが引き取り、長妙寺に葬ったと伝えられます。
純真な恋心と17歳という若さが庶民の同情を呼び、井原西鶴(いはらさいかく)の「好色五人女(こうしょくごにんおんな)」や歌舞伎、浄瑠璃(じょうるり)の題材にもなりました。
昭和初期の旅籠枡屋(はたごますや)(本館蔵)
なりたミちの道標(本館蔵)
旅籠看板(高橋家蔵)
八百屋お七の墓 天受山長妙寺(萱田町)