鎌倉・室町時代(武士の支配と荘園)

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 平忠常(ただつね)が起こした大きな乱や、富士山・浅間山の噴火の影響などにより、市域を含む房総の地は荒廃しました。忠常の子孫が開発を担い、彼らによって開発された耕地と村落が、現在の八千代の原型となったのです。
 その地を守るために有力貴族や大寺社に寄進(きしん)したのが、市域の北部あたりを含んだ臼井庄(うすいのしょう)や萱田神保御厨(かやだじんぼみくりや)です。この頃から従来の郡と郷の関係はなくなり、郷は郡の下ではなく併置されるようになりました。一所懸命に開発した土地を本領とし、地名を自分の苗字として名乗りました。臼井氏や神保氏も、その土地の名を冠して市域を治めていたのです。
 臼井は平安末期に入って登場する名です。つまり、当時、新たに開発された土地であることが分かります。鎌倉政権が成立すると、臼井氏は源頼朝に在地支配(ざいちしはい)権を安堵(あんど)され、御家人になりました。南北朝時代以降の中世文書に見える庄内の市域の地名としては、星名(ほしな)郷・神保郷、神(かの)村、島田村、真木野村、平戸村、伊毛窪(いものくぼ)村などがありました。
 臼井氏の有力庶子家(しょしけ)である神保氏は、神保郷・萱田郷を伊勢神宮内宮(ないくう)に寄進して、萱田神保御厨としました。皇祖の権威を背景に国司の干渉を排除することができ、荘民に対する精神的な支配も可能になったのだと考えられます。御厨とすることにより在地支配を強化することができたのです。吉橋郷も神保氏の勢力圏だったと考えられますが、御厨にはなりませんでした。神保氏は、承久(じょうきゅう)の乱(1219)の後に出雲に所領を与えられ、後に八千代市域から遠く出雲に移住する一族が現れました。
 萱田・神保・吉橋の3つの郷は、やがて香取神宮の造営に関する資料の中に登場します。千葉氏の名前で香取神宮の造営が行われたことから、神保郷・吉橋郷は千葉氏が治めることになったことが分かります。
 臼井氏が、宝治(ほうじ)元年(1247)に宝治合戦と呼ばれる戦に参加、敗北したことにより衰退し、萱田郷も千葉氏が治めることとなりました。
 その後、千田氏や中村氏の名前も登場しますが、鎌倉末期には、市域の北部は千葉胤貞(たねさだ)氏により日蓮宗の中山法華経寺に寄進され、室町時代には、鎌倉公方の足利氏満(うじみつ)や下総守護の千葉兼胤(かねたね)といった権力者の安堵を重ねて受けることによって、領有を確かなものとしました。
 その後、戦国の世が続くと、市域にも大きな影響を及ぼしました。太田氏や村上氏、原氏、高木氏、里見氏、上杉氏などの武将の名前が登場し、彼らに関する様々な伝説が残っています。
 戦乱を経て、市域は北条氏に取り込まれていきましたが、最後には小田原へ参陣し、豊臣秀吉率いる軍勢相手の籠城戦に敗戦の末、戦国の世の終わりを告げることになりました。