明治時代(廃藩置県と学制発布)

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 明治2年(1869)には、幕府領は葛飾県となり、佐倉藩はそのまま統治を続けましたが、明治4年(1871)の廃藩置県によって佐倉県となりました。その後、府県の統廃合が進み、同年印旛県(次項の図の赤枠内)に吸収されました。市域は印旛郡と千葉郡に分かれています。
 明治6年(1873)に印旛県と木更津県と新治県は廃止され、千葉県となりました。大和田原が、明治天皇によって習志野原と命名されたのもこの頃です。

明治4年頃の市域(印旛県)

 館蔵の明治の迅速測図(じんそくそくず)には、江戸時代の25ヶ村の名がそのまま残っています。
 千葉県ができると、各地域で学校が作られました。学校と言っても、寺院を仮校舎にしたもので、米本小(現阿蘇小)は善福寺に、出戸小学校(現大和田小)は円光院に、村上小(現村上小)は正覚院に、東小学校(現睦小)は妙光寺に設置されました。その後も村の発展と共に学校も整備され、学校名や校舎を変えながら、市域の教育を支えてきたのです。
 市域の村々は連合戸長(れんごうこちょう)役場という形で治められていましたが、明治22年(1889)4月に、市制・町村制が施行されることで、町村の合併が進みました。「阿蘇・睦」という村名が新しく作られ、千葉郡大和田村・睦村、印旛郡阿蘇村となりました。当然明治6年、学制発布と共に作られた頃には「阿蘇・睦」の名はなく、別の学校名で呼ばれていました。制度や町名が変わると学校名も変わっていくことになります。
 明治24年(1891)には大和田町へ改称。大和田町は明治になっても、旅客の往来で繁栄していましたが、明治27年(1894)に総武鉄道が開通すると、旅館、その他の商店は影響を受け、閉鎖せざるを得なくなりました。

明治22年 3つの村へ統合