4 旧石器文化の特徴と発展

154 ~ 159 / 761ページ
 技術の発達、道具を使うという行為はヒト固有の技術ではなく、木の枝や自然石を用いて食料を確保するなど、広く類人猿にも認められる。しかし、こと道具の加工については類人猿は枝の先をかじる程度の未熟なものであり、また長期間の道具の保有、使用は認められない。旧石器時代の道具も基本的に自然物を加工して利用するものに限られている。材料は石、木、骨などがある。石を加工した「石器」は、保存されることが多く、当時の技術を知る上で都合がよい(図4・5)。
 
図4 旧石器時代の石器製作技術
図4 旧石器時代の石器製作技術

図5 後期旧石器時代の石器と製作過程
図5 後期旧石器時代の石器と製作過程

 衣類は石器の中に石のナイフや、油のそぎ落としに使う削器、掻器などがあり、縫い合わせるために穴をあけるドリル(石錐、オールなど)などから、毛皮などを利用していたことが推定できる。
 食料の確保は採集、狩猟など自然物の獲得によるものである。長野県野尻湖では湖底から多くのナウマン象やオオツノシカなどの化石骨とともに、動物の解体に使用したとみられる石器や骨角器が残されていた。重さ数トンに達するこうした大型動物は、少人数での捕獲は困難であったが、集団による狩猟で一旦倒すと大量の食料が得られることから、一番の目標であった。こうした大型動物が後期旧石器時代に滅んでしまうのは、彼らの狩猟によるものとの説もある。ただしシベリアでは大型動物のなかで最大のマンモスは実質的に狩猟対象の中心になってはいないという。少数の人類集団にとって大型動物は極めて困難な狩猟対象でもあった。また、採集は木の実や根茎類などが予測されている。
 食事の変化についてはまだ明らかにし難い。初期の猿人などは生食であったが、原人段階以降に火の使用が始まり、直接焼いたことが予測されている。食料に熱を加えることでそれまで食べることが出来なかった堅いものや毒性のあるものを加工し、同時に加熱により柔らかくし、衛生面での効果も得ることができるようになった。後期旧石器時代になると、集落から「礫群(れきぐん)」と呼ばれる自然石を寄せ集めただけの施設が発見されるようになる。礫は赤く焼け、割れているものがあり、タール状の付着物が見られるものもある。これらは民俗例にある石蒸し調理(ストーン・ボイリング)の跡とみられている。食料を木の葉などで包み、焼けた石で覆うものである。こうして旧石器時代には土器などの煮沸具が不在であるものの、焼く、蒸すといった調理法が生まれた。
 住居は旧石器時代人が氷河期と呼ばれる寒冷期をどうやって乗り越えたのか、特に東アジアに進出したことによって耐えなければならない寒さをどうやってしのいだのかに関わる難しい問題である。岩陰、洞窟の利用はあったが、そうした自然条件を広範囲には期待できない。発掘調査でも住居の痕跡(こんせき)はほとんど未確認である。シベリアなどでは後期旧石器時代にマンモスの牙(きば)や骨を組み合わせて作られた住居跡が発見されている。数千カ所に及ぶ日本の旧石器時代遺跡でも、確実な住居跡の発見は数遺跡に過ぎない。大阪府はさみ山遺跡の住居は、直径六メートルの範囲を円形に掘りくぼめ、周囲から細い柱で囲み、テント状に屋根を設ける構造と考えられている(図6)。また、広島県西ガガラ遺跡の住居は、中央を掘りくぼめることなく直径四メートルに細い柱を立て、屋根を設けたとみられる。これらはいずれも簡単なテント式の住居であり、彼らの狩猟・採集生活という頻繁な移動生活に適合した形態と考えられる。このように旧石器時代の住居は風雨を避ける最低限の施設や稀に洞窟などを利用していたために、その発見が困難となっている。
 
図6 はさみ山遺跡の住居跡
図6 はさみ山遺跡の住居跡

図7 はさみ山遺跡の住居と墓地
図7 はさみ山遺跡の住居と墓地

 旧石器時代の埋葬遺構はほとんど確認されていない。希有(けう)な例として北海道湯の里4遺跡がある。ここでは人骨の検出はなかったが、浅い墓壙を掘り、遺体を埋めたとみられる。墓壙内から首飾りとみられる装身具や赤色顔料が発見された。これが現在列島で唯一の墓とみられる。このように日本の旧石器時代遺跡での墓地の発見はごく少ない。しかし当時墓を作らなかったわけではない。身近な人の死に対する悲しみや死生観は人類が比較的早くから獲得した観念なのだと考えられる。日本列島での埋葬跡の未発見はやはり当時の墓が簡略であり、調査で発見し難いことに起因するものであろう。
 ではこの旧石器時代の社会はどのようなものであったのだろうか。当時の人々の集まりは遺跡からみると頻繁な移動を繰り返す小規模な集団からなっていると考えられる。当時の生活の実態を知ることは困難であるが、アフリカやパプア・ニューギニアなどの近年の民俗例を参考にしてみると、集団は通常「バンド」と呼ばれる単一か少数の家族からなると考えられる。大型獣の狩猟には多くの狩人が必要であり、その狩猟シーズンには多くの集団が集まることがあったとみる研究者もいる。こうした一時的な集合はあったとしても通常の旧石器時代の人々は少人数で生活していたとみられる。
 日本列島の後期旧石器時代には発見された遺跡がある地域に集中する傾向が認められる。それは遺跡群と呼ばれ、その単位ごとに石器の形態や製作技術、利用された石材に地域色を持っている。これは彼らの移動生活が無計画に行われたのではなく、ある地理的範囲を行動範囲と定めていたことを示している。
 こうした範囲は集団領域や活動領域、あるいはテリトリーと呼ばれていて、日本列島だけでなくヨーロッパなどの旧石器時代にも報告されている。列島ではこの範囲はおおよそ直径数十キロメートルの広さである。日本列島ではこれまでにこうした単位がおよそ二八〇確認されている。九州島にはおおよそ一六の単位がある。もちろんこの集団領域は完全に固定化していたものではなく、多少の変化があるようだ。集団領域ごとに石器などの地域色を見せることから考えると、集団領域内には複数のバンドが生活していたと考えられる。複数のバンドは時に集合するが、基本的には単一で活動し、石器石材の入手や技術の交流、情報交換、婚姻などでは相互扶助的関係を保ち、集団領域間での関係も保っていたと考えられる。
 さてこうした後期旧石器時代の日本列島の人口はどれくらいであっただろうか。これについては幾名かの研究者が復元を試みている。岡村道雄(おかむらみちお)氏は現在の狩猟民の例や縄文時代の人口復元値の推移、さらに列島内の単位数から見て、おおよそ一万五〇〇〇人との推定値を示した。これに対し新堀友行(しんぼりともゆき)氏は人口密度の変化や縄文時代早期からの類推で六〇〇〇~一万二〇〇〇人と積算した。また伊藤健(いとうけん)氏はバンドの構成や季節的な変動などを考慮すると、列島で平均すると〇・〇三人/一平方キロメートル程度、つまり八〇〇〇~九〇〇〇人ほどの人口であったとした。つまり多くの研究者はこの時期の日本列島の総人口を一万人前後と推定しているのである。この復元値を用いると当時の九州島の人口は一二〇〇人強と推定される。現在の沖縄を除く九州の人口密度は一平方キロメートルあたり二九五人である(一九七五年段階)。後期旧石器時代は現在に対し、おおよそ一万分の一程度の人口密度であったことになる。こうした人口の復元に対してなお多くの問題もあるが、日本列島で氷河期を生き抜いた狩猟採集民の厳しい生活や社会を考察する手掛かりにはなるであろう。