日本列島に人類が登場した第四紀はすでに幾度か触れたように氷河期の時代とも呼ばれ、地球上に極めて寒冷な時期が繰り返し訪れた。ただし一貫して寒冷な時期が続くのではない。寒冷な氷期とやや穏やかな間氷期が繰り返したのである。代表的な氷河期はおよそ五〇~六〇万年前のギュンツ氷期、約四五万年前のミンデル氷期、約一五万年前のリス氷期、そして約二万年前のヴィルム氷期である。最近の科学的分析に基づく古気候復元によるとそれぞれの氷河期や間氷期は決して単純に変化するのではなく、短期間に寒暖が複雑に入れ替わる時期もあった。こうした気候の変動が人類の活動範囲の拡大に影響を与えたのである。
日本列島において人類活動が認められるのは現時点ではリスーヴィルム間氷期後半である。そして遺跡数が増加し、人類の急速な増加が予測されるのは最も厳しい氷河期とされるヴィルム氷期に入った約二万年前頃であった。
ヴィルム氷期最寒期の大陸氷床の拡大は大きく、著しい海退現象を生じた。最大値は現海面からマイナス一二〇~一四〇メートルに及んだと推定されている。しかし、日本を含む極東地域での最大海面低下値や復元海岸線は厳密に復元されていない。この海退現象と同時に局地的な地盤沈降やハイドロアイソスタシーと呼ばれる海水圧の変動による地域的な地盤隆起なども予測され複雑なのである。水面低下の最大値をAT降灰以後のBP二万四〇〇〇年~一万五〇〇〇年前(非補正値、以下同じ)の間でマイナス一二〇メートル、BP八〇〇〇年前でマイナス二〇メートルとし、その間の海面上昇の平均値である年間〇・〇一メートルからBP一万二〇〇〇年前をマイナス五〇メートルと推定し、現況の海底地形から当時の海岸線は図9のように復元される。
こうした海退現象による海岸線の移動はユーラシア大陸東岸に広がる遠浅の大陸棚を広い陸地に変えた。その中でも東南アジアのスンダランドや黄河下流域の陸化は広大であり、寒冷期にあって動植物の繁栄に大きな影響を与えた。このうち日本列島に近い黄河下流域では、最も海岸線が後退した時期では、黄海のほぼ全域が陸化し、黄河、長江下流域に南北約一二〇〇キロメートル、東西約六〇〇キロメートルで約一〇〇万平方キロメートルの広大な平原が出現した。マイナス五〇メートルとなると約五〇万平方キロメートルとおよそ半分に減少した。
九州島周辺では水深の浅い西から北岸で陸化面積が大きく、マイナス一二〇メートルで対馬周辺、さらに玄界灘から響灘地域で約三万平方キロメートル、五島列島から天草灘、有明・八代海などで約一万平方キロメートルの陸化が予測できる。瀬戸内海も干上がり陸化した。西瀬戸内地域や豊前地域の河川は現在の周防灘中央付近で合流し、国東半島の沖を通過し、豊後水道から直接太平洋へ注いでいたと考えられる。この旧大河川は周防川もしくは豊後川と仮称されている。寒冷期は降水量が少なく、河川の水量は乏しい。流域には段丘や渓谷が各所に発達したと推定される。
さて、朝鮮半島と対馬を隔てる対馬(朝鮮)海峡は現在最深一二〇メートル以上であり、海流による浸食を想定しても幅数キロメートルから十数キロメートルの海峡が残る。海峡全体が陸化したとみる説もあるが、潮流や古日本海からの溢水を考慮し、海峡の存在を認める説が多い。後者であるなら人類や動物層の移動に際して渡海を想定しなければならない。なお朝鮮海峡の狭小化はリス氷期と、ヴィルム最氷期の二回はあったと推定されている。
動物化石などの調査から、絶滅種であるゾウ、野牛、オオツノシカなど更新世の大型動物群が九州島へ渡来し、やがて本州や四国など日本列島の各地に新たな生息域を広げたことが判明している。それはこうした氷河期の九州島北西岸と朝鮮半島が狭まった時期に、大陸氷床による食料欠乏に追われ、大陸から朝鮮半島方面へ南下する動物群があったのであろう。同様に北海道にはシベリア・沿海州方面から渡来したマンモスや毛サイなどのマンモス動物群があった。ただしこれは本州島までは拡大しなかった。旧石器時代の人類による狩猟対象動物は、野尻湖動物化石群からナウマンゾウ、オオツノジカが含まれていたと考えられる。
残念ながら九州島ではこの時期の動物相の復元に必要な動物化石の検出が少ない。北部九州でも同時期の動物化石としては福岡県青龍窟ナウマン支洞のナウマンゾウ、シカ属など、また長崎県原ノ辻遺跡のナウマンゾウなどが僅かに発見されている程度である。中部九州では大分県代ノ原で14C年代測定でBP三万七〇〇〇年前とやや古いナウマンゾウ化石が発見されている。また周辺地域であり時期は下るが、広島県馬渡(まわたり)岩陰や愛媛県中津川洞窟(なかつがわどうくつ)では縄文時代草創期のオオツノジカ化石が出土している。こうした点から見ると対馬(朝鮮)海峡が陸化するたびに大型動物の移動があったことが推定できる。なお、西日本の中~小型動物であるイノシシとニホンジカは先の大型動物絶滅後、縄文時代初期以降に増化したと考えられている。
植物相の変化についても北部九州ではなお調査不充分である。長崎県堤西牟田遺跡の花粉分析によると、最終氷期頃の植生は低地までモミ、ツガ属などの針葉樹やブナ、ハシバミ、シナノキ属などの落葉広葉樹を主体とする冷温帯落葉広葉樹林であった。南部九州は入戸(いと)火砕流堆積後、形成された平原(シラス台地)の植生の回復が長く遅れ、風化土壌内の分析からクマザサなど草本類が長期間繁茂する環境が推定されている。その後、西~南部から温帯落葉樹林が広がり、やがて更新世末には列島内でいち早く暖温帯照葉樹林に転換する。
なお南部九州は約二万四〇〇〇年前の姶良(あいら)火山の噴火により、それ以前の動植物相は壊滅的打撃を受けた。また厚い火砕流(シラス)埋積により、カルデラを取り巻くように直径約一五〇キロメートルの範囲に広大な平原が形成された。花粉・プラントオパール分析によりこの平原には、古植生の壊滅後、新たな第一次植生として笹やススキなどイネ科草本類の繁茂が推定される。やがてこの環境で繁殖可能な動物相の流入、定着があったと考えられる。この地域の最初の動物としてはオオツノジカなどのシカ属が想定される。これらは火砕流の直接被害や多量の降下火山灰(姶良丹沢(たんざわ)火山灰:通称AT)層の大きな影響から免れた西北九州地域から移動してきたが、それらは本来、陸橋や対馬(朝鮮)海峡を渡海した周口店動物群の一部であったと考えられる。ただこの地域で火砕流噴出後、植生の回復から動物の繁殖まで、ある程度の時間を要したことを考慮しなければならない。さらにそうした動物相を狩猟対象としての人類活動が本格的にいつ始まったのか、すなわちどの程度のタイムラグを要したのであろうか。杉山(一九九九)は、植物珪酸体の分析を通じて、入戸(いと)火砕流よりはるかに小規模な幸屋(こうや)火砕流により壊滅した縄文時代南九州南端地域では、ススキ等草本類の繁茂後、元の照葉樹林に回復するのに約六〇〇年を要したと積算している。