草創期

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 (一万二、三〇〇〇年前頃~九千数百年前頃) 旧石器時代と縄文時代とを区分する要素は、土器と弓矢の出現である。土器は「煮沸(しゃふつ)する」調理方法の開発、あるいは「液状物の貯蔵」方法の確立を示すものと言える。最古の土器群として粘土紐(ひも)を帯状に器面に貼り付けた隆起線文土器、爪形文土器などがある。長崎県佐世保市泉福寺洞穴出土の豆粒文土器も隆起線文土器の一種である。このあと条痕文土器、無文土器などが続くとみられてきたが、太い隆帯をもつ無文土器などはむしろ遡(さかのぼ)る可能性がある。わずかに外反する口縁部に刺突円孔を並べる柏原式土器は草創期末頃に考えられている。円孔は貫通せずに裏面側に突起を生ずる例もある。北部九州では丸底が主流だが、後半に見られる尖底の無文土器から早期の押型文土器へと移行するようである。南九州では貝殻文円筒形土器の前に見られる土器群でも平底が用いられ、アナダラ属などの双殻類の貝殻腹縁による二枚貝条痕文が多用されている。
 草創期の石器類では、最古の土器群には細石刃などの細石器が伴い、石槍や局部磨製片刃石斧の伴う段階が後続するらしい。本州島では隆起線文土器に神子柴(みこしば)・長者久保タイプの局部磨製片刃石斧や有舌尖頭器が伴う。九州島では隆帯文土器や爪形文土器に細石器が伴い、有舌尖頭器は次の早期にまで残る。また石鏃の存在から、弓矢の出現を知ることができる。旧石器時代以降の気候の変化に伴う植生や動物相の変化に対する適応の一つであろう。
 この時期の集落遺跡は南九州で発見されていて、鹿児島市掃除山遺跡で二軒の住居跡、煙道付き炉穴、配石炉、貯蔵穴群などの遺構をもつ集落があり、加世田市栫ノ原(かこいのはら)遺跡でも煙道付き炉穴や貯蔵穴群がある。これらの遺跡では石皿・磨石類が多数出土していることから、堅果類種子などを加工した食品や、薫製(くんせい)加工した食品などを食用にしながら、定住生活を始めていたものとみられる。
 
図1 縄文土器・住居跡の変遷(1)
図1 縄文土器・住居跡の変遷(1)
(1~41・43~47・49・50は1/8,42・48は1/12,A~Lは1/180)

図2 縄文土器・住居跡の変遷(2)
図2 縄文土器・住居跡の変遷(2)
0西和田式・小池原下層式,Ⅰ小池原上層式,Ⅱ鐘崎Ⅱ式,Ⅲ鐘崎Ⅲ式,Ⅳ北久根山式

図3 縄文土器・住居跡の変遷(3)
図3 縄文土器・住居跡の変遷(3)
Ⅴ菊水町式,Ⅵ西平式,Ⅶ三万田式