(九千数百年前頃~六三〇〇年前頃) 早期には、押型文土器の文化圏が中部地方から九州地方の北半分を覆い、南九州は平底の貝殻文円筒形土器の文化圏であった。出現期の押型文土器は、細かな回転押捺文様を帯状に施文するもので、次には口縁部内面に原体条痕をもつものも現れるが、押捺文様は横方向に施文される。その次の段階には文様の単位が粗くなり、縦方向に押捺(おうなつ)するものが現れる。器形も尖底で直線的に広がるものから、胴が膨らんで丸底・平底になるものが現れ、強く外反する口縁部をもつものへと変化する。大分県地方を中心に設定された土器型式編年では、川原田式、稲荷山式、早水台(そうずだい)式、下菅生(しもすがお)B式、田村式という順で、南九州を中心に出土する平底の手向山(たむけやま)式、平栫(ひらがこい)式、塞ノ神(せのかん)式土器などが続く。南九州では、手向山式土器段階に壺形土器が出現する。平底と尖底の相違は土器の使用方法、食物の加工方法の相違であり、壺の出現は単に煮沸する用途でなく、酒などの特殊な液体の貯蔵をうかがわせる。
この時期に特徴的な石器の一つに異形局部磨製石器がある。トロトロ石器とも呼ばれる。チャートなどの石材を用いて丁寧に調整加工され、先端部が鋭く尖らずに丸みをもつものが多い。全体に丁寧な調整剥離(はくり)を加えた、わたぐりの深い鍬形鏃と称される石鏃も早期から見られる。
南九州でこの時期の遺跡の調査が進み、鹿児島県国分市上野原遺跡では四六軒の方形プラン住居跡が発見され、細い谷状の道状遺構を伴った最古級の集落遺跡として話題になった。鹿児島市加栗山遺跡でも一七軒の住居跡が発見され、一辺三・三メートル前後の規模の隅丸方形プランが多い。方形や長方形プランのものもあるが、屋内に炉が見られず、壁際に小柱穴が並ぶ。