(四〇〇〇年前頃~三〇〇〇年前頃) 九州島での草創期と前期から中期の土器は、アナダラ属二枚貝の腹縁を用いて器面を掻いた際に生じる貝殻条痕文で飾ることが主であった。しかし後期になると、宇佐市西和田貝塚を標識遺跡にする阿高式系の西和田式土器が見られるものの、新たに磨消縄文土器が出現する。縄目文様を施文した下地に沈線で渦巻などの文様を描き、区画した沈線間を箆(へら)などで磨(す)り消す手法で、東日本からの文化複合によってもたらされたものであった。
初期には胎土に滑石粉末を含む阿高式系土器と、瀬戸内地方に分布する区画の広い磨消縄文土器である岡山県中津貝塚を標識遺跡にする中津式とが融合した土器も見られ、活発な人の動きと接触がうかがわれる。瀬戸内地方では、中津式の次には三本沈線で描かれる文様が特徴的な福田KⅡ式土器が現れ、口縁部が幅広く肥厚する縁帯文土器系の平城式土器、彦崎KⅡ式土器、津雲式土器が続き、これらの土器は少なからず九州島の土器に影響を与えている。
東北九州では、福田KⅡ式に並行する小池原下層式土器の次に小池原上層式・鐘崎式が続く。くびれた頸部から胴部が膨らむ器形が多く、波頂部下の胴部を中心に渦巻文や入組文などが描かれ、橋状把手を付けるものもある。磨消縄文の縄文は大きめで沈線も太めだが、縄文が省略されて施文(せもん)されないものも多い。さらに純粋な縄目から貝殻押捺の疑似縄文へ、縄文施文後の区画内の磨り消しから区画内に縄文や疑似縄文を充填(じゅうてん)施文する手法へと合理化されるようになり、やがて縄文文様の消滅へと進む。文様施文原体が縄から貝殻へ、その貝殻もアナダラ属二枚貝腹縁からヘナタリなどの小巻貝へ、後には木材のような植物質の素材へと変化していくことになる。この段階が北久根山(きたくねやま)式土器の段階である。
北久根山式土器は、肥厚した口縁部に斜方向の刻目などを施し、波頂部にW字状文様が付く。口縁部と胴部に縄文施文帯をもつ例もあるが、新段階では小巻貝を回転押捺した疑似縄文を施文することが多い。それまでの渦巻文などの曲線的文様から工字文などと呼ばれる直線的な文様に変容する。また注口や高坏形の器種も現れる。
西平式土器は、丸く膨らむ胴部から屈折した口頸部が直線的に開き、口縁部はく字形に内傾する。口縁部と胴部に狭い平行沈線文の磨消縄文が見られ、刺突列点を伴うこともある。
三万田(みまんだ)式土器は、黒色磨研手法をとり、平行凹線文が施文される例が多く、疑似縄文が羽状文や毛羽のような細斜線文に変化し、波頂部下などに凹点文が付される。
北久根山式、西平式、三万田式土器などは熊本県の遺跡を標識遺跡にする西九州の土器であるが、近年東九州などで増加した資料などから新たに編年した形式名で呼ばれることも多くなってきている。
後期初頭から前半の西和田式から鐘崎式までの段階には貝塚が急増する。西北九州では結合釣針や石鋸、石銛、アワビおこし、骨製ヤスなどの漁撈具が見られるものの、初頭頃には石器類の量は比較的少ない。後期前半から中頃になると、腰岳産など伊万里湾周辺産出の黒曜石製縦長剥片が盛んに用いられ、剥片鏃も現れて広域に分布するようになる。この時期には周防灘南西沿岸地域を中心に遺跡数が急増し、住居跡も多数発見されている。貝塚の形成は急激に減少して衰退するが、一部の貝塚では特定の貝類に集中した貝層が形成されるようになる。鐘崎式から北久根山式段階の石器類は、土掘具に使用された扁平打製石斧が急増し、すり石・石皿類、木製品加工のためのノミ状の磨製石斧も増加する一方で、狩猟具である打製石鏃は減少する。漁撈具では単式釣針や、切目石錘・土器片錘が出現し、土偶なども見られるようになるが、これらは東日本の文化複合から伝播(でんぱ)したものである。さらに後半には十字形石器や円盤状石製品、石棒・石刀なども出現する。住居跡は方形や円形プランの竪穴住居で、石囲炉や地床炉などが設けられる。