二 縄文時代の自然と社会

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 日本列島がほぼ現在の形になったのは縄文時代からだと考えられている。気候が冷涼で現在よりも年平均気温が七~八度低く、海水面がマイナス一四〇メートル前後であったとされる約二万年前のヴュルム氷期最盛期以降の晩氷期は、交互に温暖期と寒冷期が訪れながら徐々に気候が温暖になり、次第に海水面が上昇していった。そして洪積世から沖積世に移る約一万一〇〇〇年前頃には、海水面がマイナス四〇~五〇メートルで瀬戸内海にも海水が入り込むようになり、水深二〇メートル未満の関門海峡が水没して本州島と九州島が分離したのは縄文時代になってからとみられる(図4)。およそ一万二〇〇〇年前頃(一万四〇〇〇年前頃とする説もある)~二千数百年前頃までを縄文時代と呼んでいるが、近畿地方低地や博多湾周辺での花粉分析の成果などから、縄文時代の植物相と気温の変化は次のように考えられている。
 
図4 福岡市周辺の過去9000年間における海水準変動の推定曲線
図4 福岡市周辺の過去9000年間における海水準変動の推定曲線

 縄文時代開始期頃には西日本から関東にかけて落葉広葉樹林が形成されていたと考えられていて、一万~八〇〇〇年前頃にはコナラ、ブナ、ケヤキなどの落葉広葉樹林が発達し、気温は現在よりも三~四度低い。海水面は上昇を続けているが、愛知県南知多町にある早期の先刈貝塚では現在の海水面よりもマイナス一〇メートルにあることから海水面はかなり低かったとみられる。日本海には津軽海峡を通じて親潮が流入して、海水の温度は低かったとされる。
 八〇〇〇~六五〇〇年前頃には、落葉広葉樹であるコナラ亜属の占める割合が減少し、アカガシ、シイ、ヤマモモなどの照葉樹が多くなるものの、モミ、ツガ、コウヤマキなどの暖帯落葉樹も混在する。気温は現在よりも二~三度低かったらしい。海水面が徐々に上昇して日本海に対馬暖流が流入し、日本海で海水面温度の上昇によって蒸発した水分がシベリア寒気団に吹きつけられて、列島の日本海側に豪雪を降らすようになった(図5)。
 
図5 縄文時代の日本列島の植生図と古環境の変遷
図5 縄文時代の日本列島の植生図と古環境の変遷

 六五〇〇年前頃には、アカガシ亜属、シイノキ属などの照葉樹が大半を占め、落葉広葉樹林から照葉樹林に変化する。六三〇〇年前頃に南九州鬼界(きかい)カルデラから噴出した降下軽石・火砕流堆積物・降下火山灰は鬼界アカホヤテフラ(Ah)と呼ばれ、アカホヤ火山灰は輝度のある火山ガラスが特徴で肉眼でも観察できるという。このテフラは関東地方にまで広がる広域テフラで火山灰を用いた編年(へんねん)に有効な鍵となっている。この火山灰降下や火砕流などは南九州の動植物を全滅させ、周辺地域で山崩れや河川の氾濫(はんらん)を引き起こしたと考えられる(図6)。六千年前頃はアカガシ亜属の樹種が圧倒的に多く、アカガシ、ウバメガシ、シラカシ、ウラジロガシ、ツクバネガシ、シイ、ヤマモモなどの照葉樹林に覆われる。気温は現在よりも一~二度高めで、海水面はプラス三~五メートルと上昇のピークに達したとする説が一般的である。しかし、この頃の遺跡が現在の海水面下に存在する例などもあり、瀬戸内海での近年の研究成果では当時の海岸線が現海水面よりわずか五〇センチメートル前後上昇しただけで、むしろ瀬戸内海西部に進入した海水の重力が引き起こす地殻変動があったとする説もある。
 
図6 鬼界アカホヤテフラ(K-Ah)の等厚線図
図6 鬼界アカホヤテフラ(K-Ah)の等厚線図

 千田昇による行橋平野での研究によれば、瀬戸内海西部の水系最上流部にある行橋平野への海域浸入の時期は他の地域より遅れるらしく、また珪藻(けいそう)化石による海成層の最高高度はプラス一・八メートルで、四八〇〇年前頃以降も内湾が広がる状態であったという。下山正一らの説によれば、六〇〇〇年前のほか、四八〇〇年前、三一〇〇年前頃にも縄文海進のピークがあり、博多湾周辺では四八〇〇年前頃に最高海面期(最大プラス二・二メートル)を迎えたという。すなわち小刻みな気候変動が続いた時期でもあり、生活環境はめまぐるしく変化したのであろう。この後は冷涼化に伴ってコナラ亜属の樹種が増加し、三〇〇〇年前から二〇〇〇年前頃は平均気温が一~二度低い。相対的な小海退期で海水面はマイナス二メートル程度後退したらしい。二一世紀を迎えた今、地球温暖化現象は大きな社会問題と化しているが、当時も気候の変化によって、生物相に変化をもたらしたことは想像に難くない。特に降雨量の変化などは生活環境に大きな影響を与えていたものと思われる。
 このような、自然環境の変化のなかを、縄文人たちは、自然条件に適応しながら、狩猟による動物の捕獲、植物質食料採集などで食料資源を求める生活を送るが、定住化とともに、次には自然環境を利用して罠(わな)や狩猟・漁撈具の改良によって動物捕獲を効果的に行い、有用な植物質食料資源の優先管理やアク抜き技術の進歩などで食料資源を有効的に変化させていった。この過程のなかには集団生活が組織化して、社会生活環境の整備が図られたと考えられる。自然環境への順応から克服などの間に培われた学習、経験が今日までの生活環境の基礎となったことは間違いないであろう。次の時代の生業に代表される水稲耕作の採用に至るにも、長い縄文時代の暮らしで培われた技術が基礎になったと考えられる。