一 縄文時代の自然環境

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 鬼界カルデラから噴出したアカホヤ火山灰(Ah)は行橋市内でも確認されている。標高約一三メートルの柳井田早崎遺跡の堆積層を層ごとに土壌を科学分析して火山灰が判明したが、地表から三〇~四〇センチメートル下の厚さ五センチメートルばかりの火山灰混じりの暗赤褐色土である。また、さらに三〇センチメートルほど下層になる火山灰を含む明黄褐色土は姶良丹沢火山灰(AT)と分析されている(図7)。いずれにも阿蘇4噴火に由来する角閃石を含んでいて、二次堆積の可能性があるという。この遺跡で早・前期の遺構・遺物は発見されていないが、今後行橋市および周辺で火山灰と遺構の関係が判断できるかもしれない。
 
図7 柳井田早崎遺跡の土層図
図7 柳井田早崎遺跡の土層図

 博多湾などでの完新世海成堆積物や後背湿地堆積物などの研究をした下山正一によれば、貝化石層の分析から福岡平野での縄文海進は六〇〇〇年前頃、四七〇〇年前頃、三一〇〇年前頃の三回で、現在の海岸線より最大で三~四キロメートル陸側に拡大、現海水準より二・二メートル上であるという(下山正一、一九九八)。
 海退期には上流の谷底平野を浸蝕した土砂を河口部に堆積させるが、海進時には河口が塞(ふさ)がれるために内側の低地で氾濫(はんらん)と泥質のシルト土壌を堆積させていたと考えられる。行橋平野での地理的研究(千田昇、一九八七)によれば、行橋平野への海進の時期は他の地域より遅れるらしく、珪藻化石による海成層の最高高度はプラス一・八メートルで、四八〇〇年前頃以降も内湾が広がる状態であったという(図8)。
 
図8 行橋平野の旧地形
図8 行橋平野の旧地形

 行橋バイパス建設に先立つ金屋(かなや)遺跡の調査では標高二・五メートル前後の砂地で古墳時代以降の遺構・遺物しか発見されていないが、標高七・二メートル前後の津留(つる)遺跡は淡黄色のシルト質堆積土で、縄文時代後晩期の可能性がある打製石鏃や打製石斧が若干と、弥生前期以降の土器類が出土する。
 また、標高一一メートル前後の辻垣遺跡群でも標高約九メートルの深さでシルト質や粘土の堆積や砂礫の堆積が見られ、縄文時代の遺物を若干含み弥生前期以降の遺構がある。
 海進は辻垣遺跡周辺まで溯(さかのぼ)ったようであるが、海退により砂礫を堆積させ、最終海進時に粘土を堆積させて、その後の海退によって弥生時代前期頃には環濠集落を営める安定した土地になっていたと考えられる。
 前述の柳井田早崎遺跡は標高一三メートル前後で、安定した地山があり、近くで標高一一メートル前後の柳井田藤ケ塚畑遺跡で円礫の詰まった河道跡が発見されていて、旧石器時代のナイフ形石器、縄文時代の石鏃が二次堆積で出土したという。また崎野遺跡は標高一〇メートルだが花崗岩バイラン土の地山で豊津方面からの丘陵先端部であるという。
 これらから見て、標高一〇メートル内外が縄文時代後期頃では低地遺跡として最も低い遺跡であった可能性がある。
 この地域で生活した縄文人の形質については、人骨そのものがあまり発見されていないためあまりはっきりとしていない。人骨が残るのに条件の良い貝塚や砂丘遺跡が皆無に近く、埋葬人骨があっても遺存しないのが要因であろう。数少ない例ではあるが椎田町小原岩陰遺跡で発見された前期人骨について、調査に当たった長崎大学医学部の松下孝幸助教授によれば、四肢骨の細片と頭蓋の一部だけで保存状態もあまり良くなく、年齢・性別を判断できない状態だという。
 縄文人は一般に身長は低めだが、四肢が発達した逞(たくま)しい体つきで、野山を駆け回るのに適した筋肉が発達して、筋肉を支える骨の断面形で柱状大腿骨、扁平脛骨が特徴だとされている(図9)。
 
図9 縄文人と現代人の下肢骨断面形態の比較
図9 縄文人と現代人の下肢骨断面形態の比較

 大分県本耶馬渓町枌(へぎ)洞穴で発見された早期・前期・後期の人骨を調査した長崎大学医学部の内藤芳篤教授によれば、早期成人人骨は中頭型で、眉状弓の隆起が強く、眼高上縁全体に延びる特徴を有し、男性の推定身長一五八・六センチメートル、女性一四九・七センチメートルである。前期成人人骨は中頭型で、噛耗度(ごうもうど)の強い鉗子状咬合。推定身長が男性一六二・九センチメートル、女性一四七・六センチメートルで男性の長身が目立つ。四肢骨は後期人骨に比して華奢(きゃしゃ)だとされている。また後期人骨は推定身長が男性一五八・一センチメートル、女性一四六センチメートルと西北九州の後期人骨よりやや低く、四肢骨が比較的細いという。短頭型で眉状弓の隆起は強く、鼻骨が発達していて、鉗子状校合である。なお、習俗的な抜歯風習は見られないという。
 また、中津市ボウガキ遺跡の人骨はいずれも遺存状態が悪くて計測は不可能らしいが、宇佐市石原貝塚では二体の埋葬人骨が発見されている。後期中葉以降とされる2号人骨は、長めの大腿骨からピアソン係数(四肢骨から身長を求める推定式で、イギリスの生物統計学者の K.K. Pearson が一八九九年に考案した)で求められた推定身長一五〇・四五センチメートルの壮年女性で、晩期初頭以降とされる1号人骨とともに、右側下顎小臼歯および犬歯を抜く抜歯風習の可能性があるという。