草創期段階の遺跡はまだ行橋市内で発見されていないが、北九州市貫丸尾遺跡で口縁部下の内外に穿孔が不充分な孔列を並べる尖底土器が出土している。草創期末頃とされる柏原式土器で築城町本庄大坪遺跡からも出土している。しかし、まだ明確な遺構が発見されていないので具体的な生活の復元はできない。ただ貫丸尾遺跡の土器(写真1)などは、炉の石で支えられる尖底で口縁部が開く器形は火熱を受けやすく、また焼石を効果的に投入できるので沸騰が容易であったと考えられる。
本庄大坪遺跡は城井川上流域の標高一四〇メートル前後の左岸河岸段丘上に立地する遺跡で、平成五年に圃場整備に先立ち発掘調査された(写真2)。アカホヤらしい黄色味のある褐色ないし茶褐色土やその下層に堆積する暗茶褐色土から、量的にまとまった早期稲荷山式~早水台式期の押型文土器のほか、打製石鏃や掻器などが出土している(写真3)。石鏃は長脚のものが多いようだが、ほとんどが黒色の黒曜石製で、姫島産黒曜石は少ない。
行橋市内では早期に属する遺物は、わずかに竹並遺跡のTD10号玄室に山形押型文土器片が一点混入していたのと、辻垣遺跡や福丸遺跡で小粒の楕円押型文土器片、器壁の厚さが一センチメートルと厚めで大粒の楕円(だえん)が押捺された押型文土器片が発見されている(図10の1~3)程度である。前三者は早水台式、後者は田村式頃のものであろう。
京都平野では、前述の本庄大坪遺跡のほか苅田町山口遺跡や勝山町中黒田遺跡、築城町松丸A遺跡でやや粗く大きな楕円押型文土器片(図10、4・5)が出土していていずれも田村式期頃の押型文土器で、塞ノ神(せのかん)式土器片も少し混ざる。また豊津町徳永川ノ上遺跡でも押型文土器がごく少量出土している。
今川や祓川を溯る犀川町内でも、標高一〇〇メートル前後の木井馬場の寺門(てらかど)遺跡で山形押型文、小粒の楕円押型文、格子目押型文土器片、打欠石錘など、自在丸遺跡では山形、細かな楕円押型文土器(図10の8~12)、無文土器が、祓川右岸の小丘陵先端標高七六メートル前後に位置する上屋敷遺跡で手向山式らしい縦方向の山形押型文土器(図10の6・7)などが発見されている。さらに今川を溯った添田町下津野にある下井(したい)遺跡で押型文土器が出土していて、柵状の杭列跡と落し穴群が発見された(写真4)が、アカホヤ火山灰も発見されていて年代的な絞り込みが可能かも知れない。また上津野にある後遺跡では早水台式期以降の集石炉や土坑群が発見されていて、整理・分析を要するが当時の生活相理解が期待できる遺跡である。
小倉南区新道寺の標高四四〇メートルの浅い凹地にある平尾台御花畑遺跡からは塞ノ神式土器片が、また近くの平尾分校遺跡からは異形局部磨製石器が発見されている。また小倉南区津田にある森山西遺跡Ⅲ区からは稲荷山式期頃と考えられている住居跡(写真5)などが発見されている。標高約二四メートル前後の丘陵斜面の上部にある二軒の住居跡は直径三・五メートル前後で、深さ〇・二メートルほどしか残らないが、中央に土坑があり、焼土もあったという。また土坑二基と炉跡一基は斜面下で発見されている。また長野川右岸の標高約一六メートルに位置する長野角屋敷遺跡では下菅生B式よりも先行する可能性のある竹管刺突文様の土器が出土している。
豊津町内で国道一〇号バイパス建設に伴って調査された徳永川ノ上遺跡、鋤先(すさぎ)遺跡、神手(こうで)遺跡では生活遺構が発見されていないものの、落し穴が多数発見されている。徳永川ノ上遺跡のバイパス部分で六〇基ほど発見されていて、隣接する町教委調査区でも落し穴が発見されているので群をなしていたようである。築城町安武・土井の内遺跡、広末・安永遺跡、椎田町越路(こいじ)高峰遺跡や犀川町三ツ塚遺跡などでもまとまって発見されている。長径一・二メートル、短径〇・八メートル、深さ一・〇メートルほどの狭いが深めに掘り込まれた土坑で壁は垂直に近く、床面に蓋の支柱穴もしくは逆茂木埋設のための小さな穴が掘り込まれていて、なかには柱や杭を固定する小石の残るものもある(図11)。いずれも早期頃の罠とされているが、時期決定の積極的な根拠に欠ける。