前期の生活の痕跡(こんせき)は、築城町上別府沖代(かみべふおきだい)遺跡、松丸D遺跡や椎田町西八田平原遺跡(図12)、小原(おばら)岩陰遺跡、犀川町横瀬楠遺跡、自在丸遺跡、下伊良原平原遺跡、北九州市小倉南区平尾台御花畑遺跡、貫川遺跡などで轟B式土器、添田町ズイベガ原遺跡や前述の小原岩陰遺跡や平尾台御花畑遺跡、貫川遺跡などでは西九州の曽畑式土器や瀬戸内系の彦崎ZⅠ式土器が出土していて、平地、高地を問わず広範囲な交流が考えられる。
小原岩陰遺跡は、真如寺川が左岸の角礫凝灰岩を浸蝕して形成された岩陰で、間口八〇余メートル、高さ六~八メートル、奥行き五~六メートルの規模を有する(写真6)。前庭部は標高四三~四四メートルで、岩陰最奥部まで二〇余メートルの距離をもち、現河床面との比高は五メートル前後である。平成三年の調査では早期撚糸文土器、前期轟B式、曽畑式、後期福田KⅡ式、西平式、晩期中葉・後葉などの土器片などが出土し、轟式期の人骨頭部も発見された。姫島産黒曜石製石鏃、伊万里湾産黒曜石製の剥片類、サヌカイト製スクレイパーなどの石器類と、イノシシ・シカなどの獣骨片、イタチ程度の小動物、カエル類の頸骨、種類不明の魚類脊椎骨、ハマグリ、ハイガイ、マガキ、イシダタミ、カワニナ、スガイなどの貝類が出土していて、周辺の気水域付近に生息する貝類や近くの山野で捕獲された食料資源の様子が垣間見れるものの、総じてこの地域では、この時期の出土事例が全体的に少なく、生活の様子を詳しく考証できるまでには至っていない。
中期の資料はさらに出土例が少ない状態である。定村責二編「美夜古平野の遺跡」では、行橋市下稗田の小豆田遺跡で井尻川護岸工事中に川底一四〇センチで見つかった中期土器包含層、苅田町等覚寺の北谷遺跡で中期の石鏃、石斧散布地とされているが、いずれもその後の確認ができていない。
行橋市周辺では、圃場整備に伴って平成一一年に発掘調査された椎田町東高塚弘法田(ひがしたかつかこうぼうだ)遺跡において、遺構は確認できなかったものの、船元式土器がややまとまって出土している。標高五メートル前後の砂丘に立地する遺跡である。瀬戸内の船元Ⅰ式、Ⅲ式などのほか後期初頭の在地土器である西和田式土器が出土しているが、石器類はほとんど見られない(写真7)。また、平成一三年に国道322号バイパス建設に先立って調査された香春町湯無田(ゆむた)遺跡で、中期の船元Ⅱ式土器がややまとまって出土し、離れた地点では前期の土坑群があり、アカホヤ火山灰の堆積も確認されている。このほか北九州市小倉南区貫川遺跡で中期の並木式(図13)、阿高式土器が出土している。