今、徐々に資料が増加している段階であるので、今後、前期から後期初頭頃の資料がさらに増加することによって、集落や暮らしの様子がより明確になっていくであろう。
後期前半頃までの周防灘沿岸地域では、大分県側の中津・宇佐市や国東半島周辺では盛んに貝塚が形成されているものの、福岡県側では貝塚の痕跡は極めて少ない(図14A)。谷底平野が多く、海岸に僅かな沖積平野があるのみで、縄文時代に内湾が余り広がらなかった地形的な理由に起因するのであろうか。唯一、傾斜度の低い今川と長峡川の河口部に近い行橋市宝山貝塚があったとされるが、既に消滅していて時期や出土遺物、貝類などの組成などの明確なことは分からない。定村責二「豊前国美夜古平野の古代文化(一)」などによれば、昭和二五年頃に宝山神社地の東崖で土砂採取中に石斧、土器などが発見され、神社の拝殿前鳥居の南側に黒土の堆積が認められたらしいが既にほとんど消滅し、磨製石斧が宝山養徳寺、土器片は小倉高校で保存していると記されている。この土器は、平行沈線で渦巻が変形した文様が描かれる精製土器である。下膨らみ気味の体部からそのまま波状の口縁に立ち上がる器形の小形鉢で、口径一二・一センチメートル、器高九・二センチメートルに復原されている(写真10)。このほか磨消縄文鉢片や条痕で内外面を調整する粗製鉢片などもこの遺跡から出土したらしい。宝山神社前の県道拡幅工事に先立つ試掘確認調査では、二次堆積で弥生時代前期から中期の土器片を含む砂層が発見されたものの、縄文時代の痕跡は確認できなかった。
図14A 周防灘南西沿岸地域の主要縄文時代遺跡
1:下吉田遺跡,2:葛原遺跡,3:長野遺跡,4:森山西遺跡,5:徳力遺跡,6:長行遺跡,7:鬼ノ木戸遺跡,8:平尾台分校前遺跡,9:御花畑遺跡,10:貫川遺跡,11:勝円遺跡,12:朽網南遺跡,13:浄土院遺跡,14:中黒田種生遺跡,15:宝山貝塚,16:長井遺跡,17:五徳畑ケ田遺跡,18:湯無田遺跡,19:桝田遺跡,20:ズイベガ原遺跡,21:後遺跡,22:下井遺跡,23:合田遺跡,24:崎山三ツ町遺跡,25:花熊三ツ塚遺跡,26:清四郎遺跡,27:自在丸遺跡,28:上伊良原川端遺跡,29:下伊良原平原遺跡,30:寺門遺跡,31:節丸西遺跡,32:本庄大坪遺跡,33:松丸遺跡,34:双子池遺跡,35:上別府沖代遺跡,36:十双遺跡,37:西八田平原遺跡,38:東高塚弘法田遺跡,39:山崎・石町遺跡,40:坂本下ノ森遺跡,41:小原岩陰遺跡,42:中村石丸遺跡,43:山内川内遺跡,44:吉木遺跡,45:挟間宮ノ下遺跡,46:小石原泉遺跡,47:垂水遺跡,48:土佐井遺跡,49:東友枝曽根遺跡,50:下唐原龍右衛門遺跡,51:上唐原遺跡,52:上唐原了清遺跡,53:原井三ツ江遺跡,54:高畑遺跡,55:佐知久保畑遺跡,56:佐知遺跡,57:多志田遺跡,58:枌洞穴遺跡
図14B 行橋市と付近の縄文時代遺物出土遺跡(国土地理院発行1/50000地形図「行橋」「蓑島」図幅を改変)
1:長井遺跡(晩),2:辻垣畠田・長通遺跡(早・晩),3:辻垣ヲサマル遺跡(早・晩),4:柳井田藤ケ塚畑遺跡(晩),5:柳井田早崎遺跡(後・晩),6:竹並遺跡(早),7:長者原遺跡(後),8:矢留本畔遺跡(後),9:天生田今川河川敷(晩),10:宝山貝塚(後・晩),11:下稗田小豆田遺跡(中・後),12:下崎瀬戸溝遺跡(後),13:下崎鳥井原遺跡(後),14:福丸遺跡(早),15:苅田町浄土院遺跡(後),16:八田山持迫遺跡(後),17:山口遺跡(早・後),18:北九州市平尾台分校前遺跡(早・前),19:勝山町中黒田種生遺跡(後),20:犀川町花熊三ツ塚遺跡(早・晩),21:豊津町神手遺跡(早?,後・晩),22:徳永川ノ上遺跡(早),23:鋤先遺跡(早?),24:椎田町西八田平原遺跡(早・前・後),25:行橋市幸越遺跡(後?)
また柳井田早崎遺跡は江尻川右岸の標高一三メートルの微高地にあり、後期末頃の土坑が一基発見された。この土坑からは、肩部に四条、口縁部に一条の沈線を巡らせる深鉢が出土している(図15、16)ほか、鐘崎式、瀬戸内系の元住吉山式系土器の鉢などが発見されている。
このほか平成八年に発掘調査された下崎瀬戸溝(しもさきせとみぞ)遺跡では、底部を打ち欠いた鉢を据えた埋甕(うめがめ)遺構が一基発見されている。甕は肩から胴部にかけて平行沈線と波状沈線が描かれていて、後期西平式系の鉢である。前掲の「豊前国美夜古平野の古代文化(一)」によると、下崎鳥井原で御清水池用水路配管工事中に水田地表下一五〇センチメートルから多量の弥生後期以降の土器片が発見された中に後期鐘崎式土器片一片が含まれていたというので、関連があるのかも知れない。
また、きらきら星幼稚園の西側にある矢留本畔(やどみほんなわて)遺跡では、内外面を小巻貝条痕で調整する後期土器片が採集されているので、今川沿いの沖積平野の平坦地にも生活空間が拡大していたことが分かる。
周防灘南西沿岸地域では後期中頃から晩期前半の住居跡発見例が急増し、既に総数一五〇軒以上にもなる。自然堤防や谷底平野の開けたところや、扇状地などで発見されていて、集落の様子もわかるようになってきた。
京都平野で最初に住居跡が発見されたのは昭和三一年の苅田町浄土院(字藤田)遺跡であった。家屋新築工事中に縄文土器が多量に出土して、地元研究者によって部分的に調査され、『九州考古学』第5・6合併号に「堆積石の扁平割石を隙間なく敷き詰め固めた平面が見られ、少なくとも四平方メートル以上の拡がりが考えられた」と報告されている。詳細は不明ながら、鐘崎・西平式期(縄文後期)の敷石住居跡の可能性のある発見であった。その後、昭和四七年に隣接する字釜堀で火葬成人女性人骨を納めた西平式甕棺墓が発見され、浄土院遺跡として広く知られるようになった。
その後、昭和六一年から六二年にかけて椎田バイパス建設に伴って調査された椎田町山崎遺跡で埋設土器を付設した複式炉を有する北久根山式期の住居跡や、石囲炉を有する鐘崎式期の住居跡などが発見された。簡易水道施設に伴う隣接地の石町遺跡での調査分を含めて一一軒の住居跡、埋甕遺構、多量の土器、打製石斧・すり石・石皿・磨製石斧などの石器類、土偶などが発見された。この住居跡群は、それまで遺跡が立地するとは考え難かった河川の氾濫原のような場所で発見されたことから、それ以降の調査に大きな影響を与え、次から次と谷底平野の河川脇などで住居跡群が発見される契機となった。
そして、この頃の住居跡の変遷についてもある程度分かってきた。後期前半小池原上層式期(Ⅰ期)の住居跡は、円形・方形プランで敷石石囲炉・石囲炉などを施設する住居跡がある。鐘崎Ⅱ式期(Ⅱ期)に移る頃には石囲炉から少し離れた床面に立石が据えられる「上唐原型住居跡」(写真11)が出現するようで、鐘崎Ⅲ式期(Ⅲ期)にかけて方形・隅丸方形プランで石囲炉を施設する住居跡が増加し、特にⅢ期の住居跡は絶対量が多い。柱穴に規則的な配置をみる「山崎7号型住居跡」(写真12)はこの時期に限られている。また「上唐原型住居跡」の類例はⅡ期からⅢ期にかけて増加するが、周辺部では時期的に下降する傾向がある。北久根山式期(Ⅳ期)には径六メートル以上の円形プランの例も現れ、山崎2号住居跡(写真13)のような複式炉や土器囲炉が出現して石囲炉は消滅する。周辺地域には石囲炉を施設する住居跡が波及するものの、複式炉や土器囲炉はⅣ期以降に確認されていない。菊水町式期(Ⅴ期)以降は地床炉が主流になり、西平式期(Ⅵ期)には円形・楕円形プランが多く、ほとんどの住居跡に地床炉が施設されている。大平村東友枝曽根遺跡ではⅥ期・Ⅶ期の例が多く、直径八~九メートル規模の例がみられる。三万田式期(Ⅶ期)から晩期にかけては、住居跡発見例が少なくなる。むしろ阿蘇外輪山周辺地域などで遺跡数が増加していることから、相対的な移動の可能性もあろう。
いずれにしろ、後期前半から後半にかけて住居が多数造られ、集落も形成されたが、九州島内でいち早く増えたのは京築地域である。住居跡の形態では他の地域よりも先行して新しい形態の住居が採用され、周辺地域へと拡散している状況が窺(うかが)える。また集落占地で普遍的に見られることとして、近くに山野を控えた谷底平野や扇状地で河川に近接して水を確保しやすい平坦面が選ばれ、住居跡は塊石の多い砂礫層まで掘り込んだ竪穴構造であることがあげられる。
しかし、行橋市内での住居跡発見例はまだ南泉一丁目の長者原遺跡で発見された一軒のみで、時期的にやや新しいものである。この遺跡は県道長尾稗田平島線の改良工事に伴って平成九年に発掘調査された。今川右岸の低台地先端部の標高一五メートル前後に位置する。上部を削平されていて僅かな深さしか残らないが、一辺二・六メートルほどの隅丸方形あるいは不整円形プランで、中央の地床炉を挟んで二対の柱穴らしいピットがある。後期末か下っても晩期初頭頃の土器片少量と、残存長一三・三センチ、幅六・九センチ、厚さ一・四センチ、重量一四四・二グラムを測る緑泥片岩製扁平打製石斧一点が出土した(図17)。
行橋市の近くでは、勝山町中黒田種生(たねお)遺跡で住居跡が発見されている。この遺跡は黒田小学校の北北西側約二〇〇メートルの低丘陵に位置する。昭和三〇年の排水溝工事の際に水田下約一メートルの砂礫層の下位から土器類などが発見され、この時の出土品は鐘崎式・西平式・三万田式・御領式土器、石斧、石鏃、木片、植物種子などであったという(前掲「豊前国美夜古平野の遺跡」)。出土品は勝山町公民館に一部展示されている。その後黒田地区圃場(ほじょう)整備事業に伴う平成一二年度の調査で、昭和三〇年に土器などが発見された地点の南側の低丘陵部分から、住居跡らしい竪穴二基と、周囲に柱穴列を伴う土器埋設炉などが発見された。住居跡のうち一軒は直径二・二~二・三メートル、深さ〇・〇五メートル規模で、もう一軒は深さ〇・二メートルほど残っていて、一辺が二・八メートル前後の隅丸方形プランであった。この二軒の住居跡では石囲炉は見られず、地床炉であったらしい。もう一軒の住居跡の土器埋設炉に使用された土器は、口頸部を失うが、胴最大径二九・〇センチ前後、残存高一五・〇センチ前後の大きさの鉢形土器で、胴部にアナダラ条痕を用いて疑似縄文的な工字状の区画文様が描かれている(写真14)。文様構成で柳井田早崎遺跡出土土器に似通った例がある。なお、この調査では早期後半の大粒楕円押型文土器片、後期の鐘崎式をはじめ西平式、三万田式と晩期初頭期の土器、打製石斧、すり石、石錘、姫島産黒曜石製の打製石鏃などが出土した。
豊津町節丸西(せつまるにし)遺跡は祓川左岸の標高五五メートル前後に立地し、平成元年に発掘調査された。圃場整備に先立つ試掘調査で南北二三〇メートル、東西一〇〇メートルの範囲に縄文時代の遺構・遺物が広がることが明らかとなり、盛土保存で大部分を残すことになったが、工事で削らざるを得ない約二九〇〇平方メートルの範囲が発掘調査された。遺跡の規模としては大平村東友枝曽根遺跡の三五軒の住居跡に次ぐ規模で、京都平野側では最大の集落遺跡である(写真15)。ここでは後期中頃から晩期初頭までの間の二四軒の住居跡と埋甕一基などが発見され、石囲炉を有する住居跡四軒、土器埋設炉を有する住居跡三軒、地床炉を有する住居跡八軒、複数の種類の炉を有する住居跡二軒が含まれ、住居跡を確認できなかった部分にも石囲炉が六基発見されていて、特殊な器形の注口土器も出土した(写真16)。まだ調査の正式報告書が刊行されていないので刊行が待たれる。
前節で触れたように、後期は東日本からの文化複合が伝播していて、山崎遺跡2号住居跡の複式炉自体も従前の九州では見られない炉であるが、埋設土器(写真17)も東日本的な磨消縄文手法が用いられた精製鉢である。また山崎遺跡7号住居跡出土土器(写真18)は鐘崎式としては文様の省略化が進み、波頂部四カ所ながらも一対単位の文様施文が基本になっていることが分かり、器種の分化も進んでいる。一方では伊万里湾周辺産の黒曜石を用いた石器も見られるなど西九州との交流があったことが分かる。山崎遺跡で石器の変遷(図18)をみれば、Ⅲ期(鐘崎Ⅲ式期)以降に扁平打製石斧が増加し、すり石・石皿が平坦化していて、伊万里湾産黒曜石製の縦長薄片を加工した剥片鏃、つまみ形石器の存在が顕著な変化であり、細部加工用の磨製石斧も目立つようになる。
資源を求める往来も盛んであったことであろう。行橋市西谷から犀川町花熊に繋(つな)がる幸越で発見された石器類はこのような人の往来や道としての機能を想像させるものである。幸越の石器(図19)は、安山岩製の万能的な削器(1)と、木材伐採用の磨製石斧(2)、土掘具の緑泥片岩製打製石斧(3)で、後期後半頃の可能性がある。豊津町神手遺跡では緑泥片岩製打製石斧、安山岩製石匙、十字形石器、姫島産黒曜石製石鏃などが発見されている。これも後期後半頃の可能性が高い遺物である。住居跡が発見されていないものの、大規模な集落とは異なり小規模な集落であったのかも知れない。