行橋市内の晩期遺跡としては、柳井田早崎遺跡、長井遺跡、辻垣畠田・長通遺跡などがあげられる。柳井田早崎遺跡では後期中頃以降の土器や、前述したように後期末頃の土坑などが発見されているが、晩期後半の突帯文土器片、伊万里湾産黒曜石、姫島産黒曜石、安山岩製の打製石鏃、頁岩製の磨製石斧なども出土している(図15、16)。
長井遺跡は長井集落北側の砂丘上に営まれた弥生時代の石棺墓が中心の遺跡で、墳墓は既にほとんど消滅したとされているが、晩期から弥生時代の生活遺構はまだ砂丘下に残っている可能性もある。晩期後半の土器片が発見されている(写真19)。復元口径約二二センチメートル、胴最大径二五・五センチメートルの大きさで、鋭い刻目のある突帯が口縁部と胴最大径の位置に巡る甕形土器で、器面は内外面ともに板状原体で調整された条痕が残る。
辻垣畠田・長通遺跡と辻垣オサマル遺跡は一連の遺跡であり、国道バイパス路線部分に旧河川らしい自然流路である大溝の最下層から楕円押型文土器片一片と、後晩期の土器片が一四片、打製石鏃、打製石斧などが出土した。上流側のヲサマル遺跡での出土土器片の磨滅が顕著で、下流の畠田遺跡出土土器片の磨滅度がやや低いが辻垣集落側の微高地などから流された二次堆積資料である可能性が高い。
行橋市周辺では、苅田町雨窪の黒崎南遺跡は曽根黒崎遺跡に続く石鏃散布地とされている。勝山町中黒田遺跡にも晩期初頭頃の資料が若干見られる。また苅田インターチェンジや北九州空港道路建設に先立って調査された雨窪遺跡群でも若干の晩期土器や石器類が発見されている。
この地域では晩期の遺構・遺物は、住居跡が多数発見された後期に比して例が少なく、規模も小さな例が多いものの、城井川右岸の標高三〇メートル前後に位置する築城町十双(じゅっそう)遺跡で五×四メートル規模の楕円形に近い住居跡(後葉)、同じ城井川左岸の標高八一メートル前後に位置する松丸D遺跡では直径五メートル強の円形プランで中央の地床炉を柱穴二穴が挟む住居跡が発見された(図20)。住居跡から出土した土器は少量だが、黒色磨研の精製浅鉢や条痕で調整される粗製深鉢があり、打製石鏃も出土している。さらに少し上流の杉ケ丸(すんがまる)遺跡では後期後半の西平式から晩期前半の土器、打製石斧、打製収穫具、磨製石斧、土偶が出土している。また十双遺跡より少し下流の築城五反田遺跡では後期後半から晩期後半の土器、打製石斧、打製収穫具が出土している。
標高八四メートル前後の犀川町タカデ遺跡は方形住居跡らしい竪穴の脇から二枚貝条痕のある土器片、沈線が見られる後期中頃から後半の土器片、打製石斧、磨製石斧、石匙片が出土し、喜多良の清四郎遺跡では晩期初頭頃の深鉢片、チャート製打製石鏃、姫島産、伊万里湾産の黒曜石や白色のチャート剥片など、大熊条里遺跡では二枚貝条痕の深鉢片と晩期前半の精製研磨浅鉢(写真20)が、崎山三ツ町遺跡では晩期の条痕土器片、緑泥片岩製打製石斧、安山岩製打欠石錘などが出土している(写真21)。このほか犀川盆地と呼ばれる地域では自在丸遺跡、清四郎遺跡、寺門遺跡、五反田遺跡でも晩期の遺物が発見されている。
また、角田川右岸の標高二五メートル前後に位置する豊前市中村団後遺跡では楕円形プランの住居跡二軒などの遺構と、晩期中頃の浅鉢、深鉢(甕形土器)や、打製石鏃・石斧などの遺物が出土している。
このほか、北九州市小倉南区朽網南塚(くさみみなみづか)遺跡の市道建設に先立つ発掘調査で発見された後期後半~晩期包含層のイチイガシ、イヌガヤ、ツブラジイ、トチノキ、ムクロジ、アカガシなどの実物種子資料は当時の生活環境を知る手掛かりとして貴重である。