京都平野周辺からは僅かながら、縄文時代の土偶や石棒が発見されているので、土偶や石棒を用いた祭祀(さいし)が行われていたらしい。
行橋市天生田(あもうだ)の今川河川敷から豊津高校生によって採集された石刀(写真22)は、石棒との区別が難しい形態のもので、端部に平行線が刻まれている。時期は明確でないものの類例からみて後期末から晩期前半までの時期に製作された可能性が高い。また大平村東友枝曽根遺跡から晩期初頭前後と思われる石棒片二点(写真23)が発見され、やや小さく細い石棒は北九州市貫川遺跡から発見されている(図21の4)。石棒のうちには具象的に男性器を表現した例もあるが、北部九州での石棒はやや抽象的に表現したもので硬質な石材を丁寧に研磨して光沢を有している。桜ケ丘型石製品(図21の1~3)は形態的には石棒とやや似通った部分もあるものの、石材は溶結凝灰岩などの軟らかい石材を用いていて、糸島郡二丈町広田遺跡の例(1)では端部に沈線文様が刻まれている。
香春町五徳畑ケ田遺跡(晩期)、築城町杉ケ丸遺跡(晩期)から土偶が各一点、椎田町山崎・石町遺跡(後期末)から二点発見されていて、大平村内数カ所の遺跡だけで合計約五〇点もの土偶が出土している。これらのうち石棒と土偶が一緒に出土したのは東友枝曽根遺跡だけだが、大平村上唐原了清遺跡からは土偶と桜ケ丘型石製品(図21・3)が一緒に発見されている。写真24は東友枝曽根遺跡から出土した妊婦の姿を具象するひとがた土偶で、豊な乳房と膨らんだ腹部が表現されているが、左端の土偶などは幾分か分銅形土偶と似た特徴を有している。図22は原井三ツ江遺跡出土の分銅形土偶で、抽象的な表現であるが時期的には東友枝曽根遺跡の土偶よりも遡る資料である。土偶はこれまで発見された土偶がすべて破損したものであることから、祭祀行為の際に意図的に壊されたと考えられている。
男性器などは生殖の願い、妊婦の破損は新たな生命の誕生の願いが想像される。壊された土偶の破片は、昔話の山姥(やまんば)や日本神話にある伊邪那美命(いざなみのみこと)の身体から様々なものが誕生するように、新たな食料資源が芽吹く願いとともに要所ごとに分配されたのかもしれない。
植物質食料の採集を中心に狩猟、漁撈などで食料資源を確保していた縄文時代にあっては、自然環境への適応から克服する努力が続けられていたであろうが、資源が枯渇するのは深刻な問題であった。実が成る木、根茎類の育つ土壌での祈願、狩猟や漁撈を始める際に豊な恵みと安全への祈願があっても不思議ではない。