稲作農業が始まって日本に農民があらわれてから、前方後円墳の分布にみられるような統一的な政権(倭政権)ができるまで、弥生時代の期間はおよそ六〇〇~七〇〇年間である。そのはじめと終わりでは社会や文化の様相がかなり異なるため、土器を基準に前期・中期・後期に大別して各時期の様相が検討されている。既に述べた夜臼式期は前期の前に位置し、縄文晩期後半とされてきたが、早期とする考え方も強くなっている。
弥生土器は酸化焔で焼いた素焼きの土器で、縄文土器と同様に粘土紐(ひも)を積み上げてつくり、ロクロは使わず、文様は簡素である。粘土の中の有機物が十分に燃えつきているため。一般に縄文土器よりも明るい赤褐色や茶褐色である。古い時期の土器は仕上げがていねいだが、新しくなると熟練のワザでつくりながらも仕上げは粗雑で、短時間に多量の土器をつくろうとしている。
用途に応じたさまざまな器種への明瞭な分化も弥生土器の大きな特色である。物を蓄(たくわ)えるための壺は装飾的で胴部がふくらみ、食物を煮炊きする甕は口が大きく開いてススで汚れたり火に焼けている。鉢や長い脚がついた高坏には食物を盛りつける。このほかに壺・甕の蓋、器をのせるための器台、煮炊きの際に甕を支える支脚などがある。こうした器種が組み合わさって一つの時期の土器群を構成するが、その様相は時間の経過とともに変化し、地域によっても異なる。
弥生土器の表面は、縄文時代の貝殻ではなく、板切れで凹凸をかきならす。その際に板の軟い部分が磨(す)り滅って浮き出た木目の痕が細い平行線となって残り、刷毛目と呼ばれる。口の部分(口縁部)は、土器を回転させながら水でぬらした指や布・皮で水平方向になでて仕上げるために、非常に細かな平行線(ヨコナデの痕)がつく。また、形をつくり出したり、粘土の中の空気を追い出して土器を焼く時の破裂を防ぐために、内面に石や土製の道具を当てて外側から羽子板状の板で叩(たた)き締める技法も盛んに使われた。叩き板には粘土がねばりつかないように刻み目を入れ、これが土器の表面に叩き目となって残る。後期の土器は仕上げが粗雑なために叩き目がよく残る。前期や中期の土器ではすっかり消されているが、よく観察すれば稀(まれ)に前期の土器にもあり、おそらく弥生時代のはじめから叩き締め技法も用いられたとみられる。
甕の多くは表面に刷毛目を残すが、壺や高坏では刷毛目をなでて消しており、表面を磨いて緻密(ちみつ)にすることで水もれを防ぎ光沢をもたせる。
北部九州の前期の土器は、板付Ⅰ式と板付ⅡA~ⅡC式に細分されるが、最初の発見地にちなんで「遠賀川式土器」と総称され、弥生文化の東進とともに近畿・中部地域にまで伝わる。甕は口が軽く外反する(如意形(にょいがた)口縁)のが特色で、板付Ⅰ式では口縁端の幅いっぱいに刻目を入れるが、板付Ⅱ式では口縁端の下半部のみとなり、胴も次第に張ってくる。壺は口・頸・胴・底を別々につくる点に特色がある。特に板付Ⅰ式では各部の境が明瞭だが、板付Ⅱ式では次第に不明瞭になる。
中期は城ノ越(じょうのこし)式・須玖(すぐ)Ⅰ式・須玖Ⅱ式に細分され、口の上面が水平になった口縁が指標だが、遠賀川流域から豊前地域にかけての甕には口縁上面が内傾した「屈折口縁」が多い。中期には文様はほとんどなくなり、ベンガラを混ぜたきめの細かい泥土を表面に塗って赤く発色させた丹塗磨研の技法が盛行する。中期初頭(城ノ越式)の土器にはまだ前期の要素が残るが、中期前半(須玖Ⅰ式)の土器は整った美しさを示す。中期後半(須玖Ⅱ式)になると水平口縁はさらにうすく長くなるが、整美さを通りこして爛熟(らんじゅく)した感を与える。
後期の土器は、中期の袋状口縁壺から変化した複合口縁壺(口縁の上にさらに拡張部を重ねる)や、口縁部が強く外反した「く」の字口縁の甕が特色で、それらの形態変化によって高三潴式(たかみずましき)・下大隈(しもおおくま)式・西新(にしじん)式に細分される。
北部九州では弥生前期後半から後期前半にかけて、成人を葬るための大型の甕棺が盛行する。大型成人甕棺は伯玄(はくげん)式(前期後半)にはじまり、金海(きんかい)式(前期末~中期初)、城ノ越式(中期初頭)、汲田(くんでん)式(中期前半)、須玖式(中期中頃)、立岩(たていわ)式(中期後半)、桜馬場(さくらのばば)式・三津(みつ)式(中期前半)と変遷する。これらの甕棺からは朝鮮系の青銅器や漢代の鏡をはじめとするさまざまな中国系の製品が出ることもあり、ほかの墳墓から土器とともに出た中国・朝鮮系の文物とあわせて、およその西暦年代(暦(れき)年代)を知ることができる。
弥生前期末~中期初に初めて出現した朝鮮系の細形青銅武器は、短い銅矛や無文の銅戈が特色である。朝鮮では同様な銅矛が秦(しん)始皇二五年(前二二二年)銘戈とともに出ており、中国の戦国時代の燕(えん)の貴族墓から出た細形銅戈も同様な時期である。したがって弥生前期末~中期初めは前三世紀後半が中心年代となる。中期前半~中頃の細形青銅武器には、長手の銅矛や、有文、あるいは先端と樋(ひ)の間隔が長い銅戈がみられる。同様な青銅器が出た朝鮮の全羅北道平章里遺跡では、前漢前半の中国鏡が共伴しており、前二世紀となる。一方、中期後半の立岩式の時期には前漢後半の鏡が副葬されたり五銖銭・半両銭がみられる。鏡の特徴からみて、前一世紀後半が中心年代である。後期前半には前漢末~後漢前半の中国鏡が出て、ほぼ一世紀代とみられる。後期後半(下大隈式新段階)~終末(西新式)には後漢後半の中国鏡が伴ない、二世紀後半~三世紀前半となる。したがって後期中頃(下大隈式古段階)は二世紀前半代となり、実際この時期の中国鏡が出ている。
一方、前期末よりも前の時期は、福岡県津屋崎町今川(いまがわ)遺跡で盛期の系統の遼寧式(りょうねいしき)銅剣(前六~四世紀)の先端を加工したとみられる銅鏃が出ており、板付Ⅰ式の時期とみられるから、前四世紀が中心とみられる。夜臼式期は朝鮮独自の展開をみせる遼寧式銅剣が数多くみられる朝鮮南部の無文土器時代中期とほぼ重なるから、前六~五世紀という年代が与えられる。一方、板付ⅡA~ⅡB式期は、朝鮮で細形銅剣が出現する時期にあたるとみられ、土器の様相や青銅器の流れからみても矛盾はないから、前四世紀末~前三世紀前半となる。
ほかのさまざまな遺物や遺構・遺跡は、こうした土器の時期区分にしたがって整理・検討される。ただし、弥生時代を、そうした遺物・遺構・遺跡から導き出される社会や文化の様相によって区分した場合は、中期の前半(須玖Ⅰ式期)以前の前半期と、中期の後半(須玖Ⅱ式)以後の後半期に大きく分けて考えるのが適当である。
前半期は朝鮮系の文物が主で、弥生文化の形成期(縄文時代晩期後半~弥生時代前期後半)と、国の形成期(弥生時代前期末~中期前半)にさらに二分できる。後半期には中国系の文物が目立ち、国の展開期(中期後半~後期前半)と、次の古墳時代への準備期(後期中頃~終末)に二分できる。