三 新しい道具と思想

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 夜臼式期に日本にもたらされ定着した農業文化は、単に水田で稲をつくる技術だけでなく、さまざまな新しいモノやコト、すなわち農具や工具、糸を紡ぎ布を織る道具、武器や祭り用の道具、食料貯蔵の方法、墓、さらには目にみえない農民の考え方や社会組織までも含めて、一つのまとまった体系をもつ文化複合であった。
 夜臼式期の新しい道具を通観すると、木製の農具には、水田をひらいて耕すための諸手鍬(もろてぐわ)や水田の上面を水平にととのえるためのエブリがあり、収穫した稲は竪杵(たてぎね)と臼(うす)で脱穀した。
 石器には収穫具として、親指で稲の穂をおさえ刃を回転させてつみとる石庖丁と、畠作あるいは下刈り用の石鎌がある。石庖丁は背よりも刃が大きく湾曲した扁平な半月形(短舟形)や三角形が主で、多くは紐を通すための孔が背の近くに二つあくが、まれには溝状にすりきった孔もあってこの時期の特徴になっている。
 工具には、バットのような柄(え)の先端付近に孔をあけてさしこみ、振りおろすことで木を伐採・粗割りする両刃の太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)と、先端が直角に近く屈曲する柄(え)の前面に装着する片刃の抉入(えぐりいり)石斧・扁平片刃(へんぺいかたば)石斧がある。抉入石斧は、柄に固定するための紐かけの抉り部をもち、木を粗削りしたり深く抉る。扁平片刃石斧はカンナの刃のような形で、仕上げ用に削る。これらの石斧は、木製品だけでなく、田の畦(あぜ)や堰を造成・補修するための板材や杭を多量につくるために使われた。
 
図9 太型蛤刃石斧と抉入石斧,扁平片刃石斧の取りつけ方
図9 太型蛤刃石斧(1)と抉入石斧(2),扁平片刃石斧(3)の取りつけ方

 
図10 無文土器時代中期の朝鮮の石器と対応する日本の石器
図10 無文土器時代中期の朝鮮の石器(1~7)と対応する日本の石器(8~14)

 武器には、手で握るための柄までつくり出した有柄(ゆうへい)式の磨製石剣と、矢柄(やがら)にさしこむための茎(なかご)がついた有茎式の磨製石鏃が多いが、別づくりの木製の柄をとりつける有茎式の磨製石剣、茎のない無茎式の磨製石鏃もある。有柄式石剣には、柄の中央に溝ないし節帯がめぐる有段式と、そうした細工のない無段式とがあり、後者が多い。
 織布(おりぬの)は木製の織機(おりき)で織るが、関連遺物で多いのは土製や石製の紡錘車で、小円盤の中央に孔をあけて心棒を通し、糸によりをかける時のハズミ車の役割を果たす。縄文時代の編布(あみぬの)が弥生時代からは織布となるのは、編布は目が粗いために汗を吸着する機能が低く、タテ糸とヨコ糸の間隔(かんかく)や本数が大きく違うために柔軟性が十分ではない。これに対して織布は、汗をよく吸収して発汗を促すとともに、布地も柔軟で、日中に長時間にわたって複雑な運動をする農作業をするのに適しているためである(西川宏「織物使用の歴史的意義」『論集日本原史』一九八五)。
 鉄器は福岡県二丈町曲り田遺跡で、鉄斧の頭部かとみられる破片が出たという。杭や板材には鉄斧ないし銅斧で削ったとみられる痕跡もあり、この時期から金属器があったことは確実である。
 土器では丹塗磨研壺が古くから注目されてきたが、このほかに刷毛目仕上げで口が直立するかやや内屈し口縁端に刻目をもたない甕や、口頸部が直立したり中ほどでしまる壺、半球形平底の鉢も朝鮮南部の無文土器の系譜をひくことや、土器をつくる際の粘土帯の接合面が、縄文土器では内傾なのに無文土器では外傾であると指摘され(家根祥多「朝鮮無文土器から弥生土器へ」『立命館大学考古学論集』Ⅰ)、渡来した無文土器人が与えた影響の大きさを物語る。
 
図11 中期無文土器と関連する日本の土器
図11 中期無文土器(1~9)と関連する日本の土器(10~15)

 新しい墓には、四枚以上の石材で側壁をつくって石で蓋(ふた)をする箱式石棺墓や、木板を箱形に組合せる木棺墓があり、ほかに大きな石を上石(うわいし)として据(す)える支石墓がある。支石墓は東北アジアで流行した墓制で、特に朝鮮の無文土器時代に多くみられる。蓋石(ふたいし)式と呼ばれる支石のない支石墓が古くて朝鮮全体に分布し、のちに北部では扁平な上石を下の石棺の長側壁二枚で支える卓子(たくし)形が、南部では直方体の上石の下に支石を置き、その下に主体部を設ける碁盤(ごばん)形があらわれる。日本の支石墓は西北部九州を中心に分布し、蓋石式と碁盤式がみられる。
 
図12 朝鮮の支石墓(全羅南道・五林洞8号支石墓)
図12 朝鮮の支石墓(全羅南道・五林洞8号支石墓)

 
図13 日本の支石墓(長崎県原山D地区14号)
図13 日本の支石墓(長崎県原山D地区14号)

 これらの道具や墓は、鉄器を除いて、いずれも朝鮮南部の無文土器時代中期の文化にその直接の源流が求められる。特に抉入石斧・有柄式石剣・基部が尖(とが)った柳葉形の磨製石鏃・碁盤形支石墓は朝鮮南部のこの時期に盛行し、ほかのところではほとんどみられない。
 そして、出土した人骨から復元される縄文人は丸顔で目鼻の凹凸が目立ち、身長も低い(男性の平均で一五九・二センチメートル)のに対して、北部九州から近畿にかけての弥生人は、面長でのっぺりした顔立ちに切れ長の目をもち、身長も高くなっている(男性の平均で一六二・八センチメートル)。これは、弥生時代のはじまりには単に文化要素が伝来しただけではなく、人も渡ってきており、そうした渡来人の形質が広まったことを示している。
 ただし、夜臼式期の遺物は、無文土器系が目立つが量は少なく、縄文系が多数を占めるため、在来人と渡来人は一つのムラに一緒に住んだとみられる。また、福岡県志摩町新町遺跡の支石墓から出た人骨は、きわめて縄文人的であった。したがって文化と人間の形質は必ずしも一致しておらず、弥生文化は渡来人と在来の縄文人が一緒になってつくりあげたといえる。実際、渡来系の遺物もそれまでなかったものが選択的に受入れられており、ときには在来の形態の一部をとり込んでいる。
 夜臼式期の小壺の口頸(こうけい)部が直立から内傾へと変化することは、無文土器時代中期の小壺の変化と軌を一にする。また、弥生前期初頭にも無文土器時代中期系の土器がみられるから、縄文晩期後半から弥生前期初頭にかけては北部九州と朝鮮南部の交流が密接であった。そうした中で無文土器人は継続して渡来し、そうした渡来人系の人々の出生率の高さが、渡来系遺伝子の優位性と拡散を促進したという(田中良之・小沢佳憲「渡来人をめぐる諸問題」『弥生時代における九州・朝鮮半島交流史の研究』二〇〇一)。
 すでに述べた黒川式期の無文土器前期文化の失敗例も含めて、弥生時代のはじまりとは、一時点の渡来によって瞬時に引き起こされるようなものではなく、縄文時代晩期から弥生前期初頭という長い時間の中で、朝鮮南部と北部九州の密接な交流のもとに、試行錯誤(しこうさくご)を重ねながら達成された出来事だったのである。
 そして、この時期すでに朝鮮では国の形成がはじまっており、弥生社会も当初から一定の階層構造をもっていたことは、前期初頭の福岡県夜須町東小田峯(みね)遺跡1号墓が周溝をもち、その中に一五~一六基ほどの土壙墓が入った有力集団墓であることなどからもわかる。
 
図14 夜須町峯遺跡1号墳丘墓遺構配置図
図14 夜須町峯遺跡1号墳丘墓遺構配置図

 また、弥生時代には農民の思想も浸透していった。
 自然と一体化し、自然のうつりかわりとともに一年をすごした縄文人とは異なり、自然の流れをさえぎり改変していった弥生人は、春に稲籾(いねもみ)を蒔(ま)いてから秋の収穫にいたるまで、水田や畦の管理も含めた農作業に忙殺され、漏水(ろうすい)の防止や灌漑(かんがい)、台風への備え、除草など、採集経済よりもはるかに多くの時間が労働にあてられた。しかも、田をひらいて水路や畦をつくり、取排水や土堤を維持する作業は、多くの人々の共同労働を必要とした。縄文時代の、男は狩猟・魚撈、女は栽培・採集という性別による生産活動は、農作業という男女の区別のない労働に首座をゆずり、血縁にもとづいた生産の集団関係は、土地との関係によるまとまりとしてしだいに地縁的に再編されていった。土地と水に縛られた苦しい労働が報われるのは秋の収穫期で、石庖丁でつみとられた稲の穂は、三〇~四〇本単位にまとめられて穴倉や高床(たかゆか)倉庫に蓄えられた。弥生時代の水田の生産量は決して高くはなく、農閑期(のうかんき)には狩猟・漁撈や採集もしたが、それでも水田は縄文時代とは比較にならないほど安定して、しかも美味な食料を供給した。
 つらく長い農作業とひきかえの実りは、忍耐力をつちかう。稲は手を加えれば加えるほど、管理すればするほど収穫は増す。その結果、弥生人は自己の労働に自信をもち、働くことが善で、なまけ遊ぶことは悪だとする考えが芽ばえるとともに、あらゆるものを管理していく方向性も生まれた。また、土地への執着は、よく言えば土地にしっかりと根をおろした、悪く言えば鈍重で冒険心のない性格もつくり出した。
 安定した食料の供給は余剰(よじょう)生産物を生み出して人口の増加を促し、増えた人口は新たな開田を促した。大きくなったまとまりは、より安定し、より多くの生産を約束した。ここに、大きくなること、物が増えていくこと、限りなく蓄積していくことが善であるという考えが定着していく。弥生のムラが最初に定めた境界をこえて広がる傾向にあることや、足の踏み場もないほど何度も掘られた丘陵上の貯蔵穴群などが、これを如実に証明する。
 
写真5 下稗田遺跡A地区の貯蔵穴群
写真5 下稗田遺跡A地区の貯蔵穴群

 縄文人が基本的に溝を掘らなかったのに対して、弥生人はさかんに溝を掘る。弥生文化は「溝の文化」といっても過言ではない。溝は、弥生時代が限りなくもろもろの人とモノを区分し、大地をうがっていく時代であったことを示している。
 縄文人にとって、恵みを与えてくれる母なる森や大地を積極的に破壊することは、とうていできない禁忌(きんき)であった。一方、弥生人にとって森は、切り倒して多くの杭や板材を得たり農具をつくり出すための、大地は鋤(す)き返して作物を実らせるための対象であり資源となった。縄文人はみずからが移動して泉から水を汲んだが、弥生人は動かずに大地をうがって井戸から水を汲む点に、両者の違いがよくあらわれている。
 花粉分析の結果も、縄文晩期後半~弥生前期初めに森林破壊があり、現代へとつながる環境破壊へ一歩踏み出したことを告げる。もちろん、その後に植生は回復し、弥生人も自然と共生する方向性をもっていたが、その場合の自然は人間のための自然という意味あいが強かった。
 そして、ムラを囲む環溝(かんこう)は、人と自然を切り離すだけではなく、墓地をはじき出して死者と生者のきずなを断ち切るとともに、ムラの中の人々と外の人々との間を明確に切り離し、文字通り関係にミゾをつくる。人と人を区分し、対立させ、格差をつける動きの本格化でもある。これは農業に根ざした弥生社会の本質だから、最古の環溝集落は日本で最初の農村といえる。
 これまでは前期初頭の板付遺跡の環溝集落が最古だったが、一九九〇年代になると福岡市那珂(なか)遺跡や福岡県粕屋町江辻(えつじ)遺跡で夜臼式期にさかのぼる例が発掘され、夜臼式期を弥生時代早期とする意見も強くなっている。
 
図15 那珂遺跡の環溝
図15 那珂遺跡の環溝

 那珂遺跡の環溝は二条一組で平面円形にめぐるが、内部施設は残念ながら消滅していた。これに対して江辻遺跡ではこの時期のムラの構造が明らかになった。ここの溝は全周しないが、弧を描いて居住施設を区切る。その内部には朝鮮南部起源の円形住居(松菊里型)が環状に配置され、中央部は最初は広場になって、このムラを統合するための大型建物跡一棟と、何回か建て替えられた結果として高床倉庫跡六棟が発見された。墓地は住居群とは別にある。溝の外には松菊里型住居はなく、この溝は全員の居住施設を囲い込む。また、建物群も広場も中央部にあって誰のものでもないから、全員のための施設である。このことは、弥生時代のムラが全員のための円形環溝集落から始まることを意味する。そして、こうした配置は、朝鮮南部の円形環溝だけではなく、縄文時代のムラの円形の配置も受け継いでおり、弥生の理念と縄文の理念の妥協を示している。
 
図16 江辻遺跡全体図
図16 江辻遺跡全体図