弥生時代には、ムラだけではなく、それよりも大きな地域の政治的なまとまり(集団)ができた。中国の史書に記された「国(クニ)」(以下、クニとする)がそれである。
まず『漢書』地理志には「楽浪の海中倭人あり、分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すという」とあり、紀元前一世紀には多くのクニが林立していた。一方、三世紀に書かれた『魏志』倭人伝には、「対海(馬)国」、「一大(支)国」、「末盧国」、「伊都国」、「奴国」、「不弥国」、「投馬国」、「邪馬台国」、「狗奴国」などさまざまな国名がみられ、「倭国乱れ」という有名な記事もある。また五世紀に書かれた『後漢書』倭伝は、先行する『魏志』倭人伝によった記事とは別に「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す」や、「安帝の永初元年、倭国王帥升等」などの独自の記事をのせる。建武中元二年は五七年、永初元年は一〇七年である。
こうした「国」=クニの多くは平野や盆地・河川流域を単位とする地域ごとの政治的な組織だが、邪馬台国などはそうしたクニグニの連合体と考えられている。クニの内部ではムラとムラとの間に政治的な上下関係ができ、ムラの中は有力な人々(首長層)と一般の人々(民衆)に分裂して、クニの頂点に立つムラの首長(王=キミ)が登場するなど階層の分化がすすむ。
いつの時代にも人々はいくつもの集団に同時に属して活動する。弥生時代の集団も、(A)一つの住居、(B)住居群、(C)複数の住居群、(D)小地域、(E)単位地域となるクニ、(F)そうしたクニグニの連合体が重層していた。Aは消費単位の世帯、Bは世帯がいくつか集り労働のための基礎となる単位(世帯共同体)、Cは土地を占有し周辺の小さな集落まで含んだムラであり、これらは竪穴住居やそのまとまり、空閑地、全体を囲む溝(みぞ)や柵(さく)などによって、目にみえる形でとらえられる。一方、D・E・Fは常にあるのではないし、直接的に示す施設もないため、資料を分析して捉える。
遺物、特に地域ごとに異なる土器の特色をみつけ、その広がりを捉えるのも一つの方法だが、それだけでは政治的な結合の証明にはならない。クニができる要因を考えるならば、そうした地域のまとまりに、政治的な器物を多くもつムラがあるのか、あるいは階層構造が強化されて階級社会へと転化する兆(きざ)しがあるのかに注目する必要がある。
クニができる時になぜ階層構造が強化され、首長層が登場するのかといえば、第一に、弥生社会では、すでに述べたように、大きな集団ほどより安定してより多く収穫できるため、それぞれの集団は常に領域と人口を増やそうとしている。したがって、ほかの集団との利害の衝突や生き残り競争は避けられない。そこでは、よく組織され、より大きな集団が優位に立つし、相反する利害の調整には、政治力をもった人間が必要になる。
第二に、私たちは農村というと、すべてをそこでまかなう自給自足的なムラを思い浮かべる。しかし、弥生のムラを実際に掘ると、多くの文物が持ち込まれており、外部からさまざまなモノやコトを得てはじめて存立できたことがわかる。しかも日本の中だけでなく、海外からの鉄器・青銅器やその原料、あるいは古朝鮮や漢帝国の権威や情報が是非とも必要であり、そのための使者を送ったり迎え入れることは、一つのムラだけではとてもできない。
こうしてムラを超えて力が結集されクニができる。そこでは階層構造を強化した集団が、全体の意志をすみやかにまとめることができ、ほかの集団を傘下(さんか)におさめた。
第三に、春に種を蒔(ま)いてからずっと苦労し我慢して働き、ようやく秋に収穫したコメを、また次の収穫まで苦労・我慢して働くために食べるという、無限に続く地獄のような繰り返しの中で暮す人々が、明日の労働のためにコメを食べ自分の肉体を再生するのではなくて、今ここでただ食べるために食べる(コメを無意味に消費する)ことで、逆に人生の輝きを取り戻して自分たちにも分かち与えてくれる統率者を欲したことも、政治的な首長層があらわれる大きな要因であった。
したがって、単位地域の中に階層構造がどの程度できているかは、そこでのクニの成熟度に連動し、その目安となる。なかでも墓地の中での有力集団のあり方や、青銅器をどのように保有しているかは、階層構造を敏感に映し出す。
単位地域のまとまり自体は弥生前期初頭からあるが、クニが本格的にできはじめるのは、もっとも早い北部九州でも、朝鮮の細形青銅器類(多鈕細文鏡や銅剣・銅矛・銅戈)が流入し、生産が始まる前期末~中期前半である。
朝鮮では多鈕細文鏡や細形の青銅武器は日常生活が営まれた集落からは出ず、もっぱら首長層の墓に納められ、時に何かを祈願してから土の中や巨石の近くに納められた政治的な器物、聖別された器物であった。最初にそれらが伝えられた北部九州でも、こうした取り扱いはそっくり再現されているから、ここでもそれらは首長層のための聖なる政治的器物であった。
福岡市の早良(さわら)平野の場合、それらの青銅器は前期末~中期前半では圧倒的に吉武(よしたけ)ムラに集中し、ほかのムラでは一~二点にすぎない。したがって吉武ムラは、ほかのムラの上に立って早良平野というクニをまとめたのであり、吉武ムラ-その他のムラ-周辺の小集落という序列ができたのである。
吉武ムラの内部には、この時期の墓地が八カ所あり、豊富な青銅器を持ち方形の区画墓とみられる高木(たかぎ)地区、高木地区とほぼ同数の青銅器を持ちながらも列状の大墓地群にのみこまれてしまう大石(おおいし)地区、三〇~四〇基ほどの小群で副葬品を持たずに短期間で終わるその他の墓地の三者がある。高木地区では一つ一つの墓が大きく、ゆったりと配置され、3号墓のような青銅器の集中副葬(武器四点、細文鏡一点)もある。大石地区は一棺一点が原則で二点が二例だけあり、墓自体も小さいため、高木-大石-その他の墓地という形で格差がついている。
もう一つ重要なのは、この時期には早良平野のほかにも、唐津平野(末盧国)に宇木汲田(うきくんでん)、福岡平野(奴国)に板付(田端地区)、壱岐島(一支国)に原の辻(はるのつじ)、佐賀平野東部に吉野ケ里と、まるで細胞の核のように、それぞれのクニに一つずつ朝鮮系の青銅器を集中してもつムラがあらわれ、しかもそれらの青銅器内容はいずれも大同小異だという点である。これは、この時期にクニという政治組織が北部九州の成人甕棺墓地帯にいっせいにできて、しかも相互に実力の差がないことを示す。したがって、『漢書』地理志からうかがえる百余国体制(多くのク二が林立する状況)は、この時期までさかのぼる。
この時期、福岡市西区の今山(いまやま)でつくった石斧はクニをこえて流通し、しかも成人甕棺墓地帯ではどこでもほぼ八〇%前後を占めて自然流通ではなく再分配とみられることや、柄をさしこむ袋部の端に三条の節帯をもつ銅矛は、佐賀平野でつくられたものを含むにもかかわらず、佐賀平野では出ずに玄界灘沿岸でもっぱら出るから、この時期にはすでにクニをこえたクニグニのまとまり(ツクシ政権や初期筑紫政権などと呼ばれる)もできはじめていた。
また、クニが成立する状況は、ムラの様相からもうかがえる。この時期、吉野ケ里遺跡では二〇万平方メートル、原の辻遺跡では二四万平方メートルほどの面積を環溝が取り囲み、クニの中心は巨大集落となる。早良平野の場合、吉武ムラの全体像や環溝はまだ不明だが、生活施設の範囲は一〇万平方メートルを超える。しかも高木地区では、方形区画墓と軸をそろえ五〇メートルほど離れて墓から見上げる位置に、四間×五間で床面積一一五・二メートルの超大型建物がそびえる。この建物は中期初頭にできて中期後半に廃絶しており、高木の墓地に葬られた祖霊をまつることで、ムラの中、さらには早良平野のクニの中をまとめた墓前建物である。
これに対して吉武ムラよりも下位のムラである東入部(いるべ)の居住域は二万平方メートルと小さく、ムラをまとめる大型建物(三間×四間)も床面積は五〇平方メートルほどで、質量ともに吉武ムラには及ばない。青銅器の保有相とともに、集落の様相でも国の中心となるムラとその他のムラには格差がつくのである。
そして、こうした格差は中期後半~後期にはさらに拡大するとともに、クニの上に立つクニがあらわれ、日本列島各地の地域政権の姿がより明確になっていった。