その土器群を大きく分けると、伝統的な縄文土器の流れを汲(く)む夜臼式土器と新来の弥生文化を象徴する板付Ⅰ式およびその系統上にある土器になる。
夜臼式土器の甕(図21の4)は、口縁下に刻目(きざみめ)突帯をめぐらせ、胴部上半の反転箇所にも刻目突帯を廻らす縄文晩期土器である。刻目突帯とは粘土紐を貼りつけて廻らせ、そこにヘラや爪などで連続的に刻み目をつけたものである。その特徴のある土器群を刻目突帯文土器と呼んでいる。最後の調整を貝殻で行っている点も伝統的な縄文土器の制作技術を受け継いでいる。
一方、板付Ⅰ式土器は、公表された資料を見ると、壺型土器だけである。完形品は二個体が発見され、それぞれ有文と無文のものである。有文のもの(図21の1)は頸部に二本の縦線とそれに取り付く短い数本の横線をもって一単位になる文様で、それが一周のうち四カ所にあって彩色されている。胴部上半には複線山形文が線刻され、その上から重ねて彩色が施されている。これらは墳墓の副葬品と考えられている。
板付Ⅰ式に続く板付Ⅱ式段階の壺は、破片が数多く発見されている。ヘラ描きによる複線山形文・複線連弧文・波状文・鋸歯文・木葉文などその文様は多彩である。
長井浜の墳墓群は、板付Ⅰ式土器に伝統的な縄文式土器が含まれている弥生時代の最初の段階から造営が始まった、まさに弥生時代の新たな集団の到来を墓制の上から証明する遺跡である。
こうした新集団が母体となって、農耕集落を形成していくのであるが、そうした遺跡が近年ぞくぞくと発掘されている。その一つが辻垣遺跡群である。
辻垣遺跡群は、10号線バイパス椎田道路の建設に伴って福岡県教育委員会によって発掘調査された遺跡である。京都平野の中心を流れる祓川右岸の自然堤防上に立地する。このうち畠田・長通地区では、環濠二条・貯蔵穴五基などが発掘され、溝から出土した土器群は、長井遺跡にもあった縄文式土器系の突帯文土器と、板付Ⅰ式系統の土器が供伴することが確認されている(福岡県教育委員会「辻垣畠田・長通遺跡」『一般国道一〇号線椎田道路関係埋蔵文化財調査報告 第二集』 一九九四)。
弥生時代の担い手が、どのような集団であったのかは、弥生時代研究の中でも大きな問題である。豊前地方の弥生時代開始期を代表するこの長井遺跡と辻垣遺跡から出土する土器は、問題解決の糸口となる。