ところで、この長通地区大溝から有柄(ゆうへい)式磨製石剣の破片が出土している。使われた石は表面に等高線のような縞(しま)模様がはいる珪質層灰岩質で、明らかに地元で産出された石材ではない。この磨製石剣は豊前地方では、行橋市天生田でも発見されていて、いずれも柄(え)に段がなくなるBⅡ式として分類される新しいタイプのものである(柳田康雄「2 外来系土器(一)弥生前期の交流」『辻垣畠田・長通遺跡』所収、一九九四)。この石剣が流入した背景には、大陸からもたらされた石剣が数多く分布する玄界灘から遠賀川をさかのぼり、田川盆地から豊前に入る内陸ルートの文化伝播路が想定されている。
必ずしもこのルートばかりが、豊前地方への弥生文化流入の経路に限定されるわけではないし、また豊前地方の弥生文化成立に当たっては、長井遺跡に見られるように、海ばかりを意識するわけにもいかない。陸路も含む多面的な文化交渉の中で成立したことをうかがわせる一例であろう。
長井遺跡の墳墓群は、海を臨む砂丘上に作られた大墓地で、それを作った人々の海に対する特別な意識を読みとることができる。彼らが海を、業(なりわい)の舞台として生きていた可能性もある。土取作業により壊滅した中で、わずかに調査の手が及んだ箱式石棺の棺蓋の上からは、土錘(どすい)を副葬したものがあった。土錘は、網の下につけたおもりである。綿密な調査が及んでいれば、もっと海とのつながりがわかる資料がつかめたかも知れない。
豊前地方の弥生時代農耕文化の始まりには、海を介した他地域との交渉と具体的な人間の動きがあった可能性が強い。
今まで述べてきた土器・石器はいずれも人間がその生活の中で用いた産物である。したがって土器や石器が、ある程度、人間の動きを反映することはあるにしても、それによって昔から住んでいた縄文人か、どこかからやってきた弥生人かといった人間そのものの系統を推察することは難しい。そういう点で注目されるのが墳墓に残った人骨である。