弥生初期段階の人骨資料は、北部九州全体を見渡しても、調査されている例はまだ少ない。まして豊前地方では、その時期の人骨資料は全く残っていないので、その方面での分析は進んでいない。
その次の段階になるが、行橋市前田と上検地にまたがる前田山遺跡の甕棺墓・石棺墓・土壙墓・石蓋土壙墓から弥生中期の人骨一二体分、弥生終末の人骨資料九個体分が発掘されて、形質人類学の専門家によって分析された。遺存状態が悪く分析に耐えられないものも多かったが、その結果は、西北九州弥生人骨に多い、渡来系弥生人的形質を持ったものが多く、山口県土井ケ浜遺跡のデータに近いというものであった(土肥直美・田中良之・永井昌文「前田山遺跡出土人骨について」『前田山遺跡』所収、一九八七)。
渡来系弥生人はそれまでの縄文人とはいくつかの点で違いがある。全体に面長の顔に、額が広く、ほおの骨が張らず、こうした特徴を持つのが渡来系弥生人の顔である(写真7)。
豊前地方だけでなく、弥生文化の担い手となる弥生時代前期の人骨資料が欠落しているという現象は、北部九州全般について言えることである。その多くの理由は、人骨が残りやすい環境となる甕棺墓の採用が、多くの地域で弥生時代中期に入ってから始まるという問題にある。
縄文時代には多くを占めていた縄文人的形質を持った人々が、わずか弥生時代前期の短い時間に、どのようにしてほとんどが弥生系渡来人に交替したのか、その過程がよくわからない。
どうしても縄文時代と弥生時代をつなぐ肝心な部分が無いため、比較的時代の新しくなる弥生時代中期の人骨資料をもとに類推することになってしまう。
この前田山遺跡の人骨資料の中に注目すべき抜歯(ばっし)の風習を示すものが三体分含まれている(写真8)。抜歯というのは、健常な歯を無理やり抜き取る儀礼行為である。例えば成人になった証しとして前歯を抜き取るというような行為である。西北九州では抜歯風習は弥生中期までには終わると考えられているにもかかわらず、その風習が弥生時代中期に入ってからも認められるということは、全体的な形質が渡来系弥生人の特徴を備えているにもかかわらず、その生活習慣は在来の伝統の中に生きていたことを示している。