豊前地方の弥生時代研究

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 豊前地方の弥生時代研究は、長井遺跡の調査のように受難の歴史でもある。他地域と同様、外観の調査が可能な古墳や寺院では調査・研究が先行しているが、弥生時代研究の分野でも昭和二六年(一九五一)に発足した「美夜古文化懇話会」を舞台に弥生時代遺跡・遺物の調査研究が着々と実を結んでいった。
 一九五一年には、原口信行氏により、京都郡全域の古代遺跡が概説される中で弥生時代にも触れられ、一九五二年には田頭喬氏によって豊津町二月谷の住居跡が報告され、一九五九年には定村責二氏によって、京都平野の弥生遺跡がまとめられている。こうしたものが初期の研究である。
 また、地元の高等学校のクラブ活動による地道な調査も継続されていた。小倉高等学校考古学部の発行する『まがたま』誌上には、一九五六年中村信之氏による、延永の住居跡の報告などが掲載されている(原口信行「考古学から見た京都郡地方」『美夜古文化』No.3、一九五一/田頭喬「豊前京都郡豊津村二月谷の不思議な住居阯」『美夜古文化』No.5、一九五二/定村責二「行橋市周辺の縄文・弥生遺跡について」『美夜古文化』No.13、一九五九/中村信之「延永村縦穴住居跡調査」『まがたま』第七号、一九五六)。
 こうした中、長井遺跡の破壊が起きた。当時の様子を伝える新聞紙面からは、貴重な遺跡でありながら、開発行為にたいして後手にまわる行政と、それに業を煮やした研究者のやりとりの緊迫した状況が伝わってくる。その中で遺物の採集にあたった地道な行動がせめてもの救いであった。定村責二氏採集品は、後に小田富士雄氏により報告されるが、わずかな断片から見ても、京都平野弥生時代を代表する遺跡であることが伝わってくる。
 その後断続的な調査が行われてきたが、京都郡の考古学史上、一つの画期となった調査が行われることになった。民間(丸善不動産株式会社)の宅地造成に伴い、委嘱をうけた竹並遺跡調査会(友石孝之会長)により、一九七四年から一九七六年にかけて発掘された竹並遺跡である。
 各地域の発掘調査が地方自治体主導で行われてきた中で、調査会方式による遺跡調査は多くの問題を残したが、ともあれ竹並遺跡の調査は、豊前地方で初めて大規模な弥生遺跡を本格的に調査するという学術面では多大な成果を残した。
 その後、豊前地方では、一九七七年から一九七九年の前田山遺跡の発掘調査、一九七九年から一九八〇年の下稗田遺跡の発掘調査が同じように民間の大規模開発に対応する調査会方式によって相次ぎ実施された。
 前田山遺跡は一九八七年に、下稗田遺跡は一九八五年に、それぞれ正式報告が出され、特に弥生時代前期から中期にかけての丘陵上の集落の良好な資料として注目された(行橋市教育委員会『前田山遺跡』行橋市文化財調査報告書第19集、一九八七/行橋市教育委員会『下稗田遺跡』行橋市文化財調査報告書第17集、一九八五)。
 それぞれの成果は随時述べることにして、豊前地方の弥生時代研究について先を続けることにしよう。
 下稗田遺跡の調査以後、遺跡の調査は小規模ながら着々とその成果を積み重ねていき、行橋市、その周辺各市町でも専門職員が採用されるなどして、より細かい遺跡保護の網がかけられていった。
 苅田町では一九八四年に報告された環濠を中心とした葛川遺跡の調査、行橋市では一九九一年に調査された弥生前期集落の鬼熊遺跡、豊津町では前期の環濠集落である神手遺跡などが、豊前地方の主な遺跡調査例である(苅田町教育委員会「葛川遺跡」苅田町文化財調査報告書第3集、一九八四/行橋市教育委員会「鬼熊遺跡」行橋市文化財調査報告書第27集、一九九九/福岡県教育委員会「神手遺跡」一般国道椎田バイパス福岡県文化財調査報告書第6集、一九九二)。
 豊前地方における埋蔵文化財調査の第二の波は、一九八七年から着手された、いわゆる10号線バイパス建設に関連する調査である。一九八九年まで継続するが、弥生時代集落関係として行橋市辻垣遺跡群の調査が注目される。この辻垣遺跡は工区分けにより、ヲサマル地区、畠田・長通地区に分かれて調査報告された。
 豊前地方を縦断するこの一般国道10号線バイパス以外にも、今は九州縦貫自動車道東回りルートの調査も進められていて、次々に発掘される弥生時代資料は、研究の進展に予断を許さない状況である(福岡県教育委員会「辻垣ヲサマル遺跡」一般国道一〇号線椎田道路関係埋蔵文化財調査報告第1集、一九九三/福岡県教育委員会「辻垣畠田・長通遺跡」一般国道一〇号線椎田道路関係埋蔵文化財調査報告第2集、一九九四)。