辻垣遺跡群の調査は、豊前地方の弥生集落の始まりを知る上で、良好な資料を提供することになった。
先に述べたとおりこの遺跡から出土した土器には、先行する縄文時代からつながるものも多く、土器の形や系続からも弥生時代に入ってすぐの段階に位置づけられる集落であることがわかった。
発掘された遺構は、弥生時代前期・弥生時代後期・古墳時代前期に大別されるが、ここではまず弥生前期段階の遺構を抽出することにしたい。
辻垣遺跡群は、祓川右岸に広がる標高一〇~一三メートルの微高地に立地する。建設される道路の路線幅のみの調査であるため、集落の核心を掘り当てているわけではないが、少なくとも発掘状況からは、すでに弥生時代前期にこの一帯に弥生集落が存在していたことが確実になった。その時期は、先述したように弥生前期前半に位置づけられる。
北側に位置する畠田・長通地区では、環濠の一部・貯蔵穴・長方形の土壙などが発掘されている(写真9)。環濠の可能性のある溝5・溝7は底が狭い断面V字型に掘られ、報告書ではそれを東西三五メートル、南北一八〇メートルの環濠に復元しており、その環濠の内側にある長方形土壙をもって住居跡の可能性を考えている。
長方形土壙は、いずれも幅が約一・五メートル、長さが約二・五メートルの端正な長方形を呈し、深さはせいぜい深いもので三〇センチメートル前後しかない。4号土壙からは、火災により焼失した炭化木材が出土していて、報告書に指摘されたように小型竪穴式住居になるか否かはわからないが、生活の痕跡(こんせき)はありありと残されている。
旧河道を挟んでこの南側の調査地区が、ヲサマル地区である。この地区からは、住居跡などの生活遺構は発掘されていないが、直径三〇メートルの円形周溝がある(写真10)。報告書では、この円形周溝の性格について述べられていないが、さきの畠田・長通地区とは別集団が営んだ環濠という意見もある(柳田康雄「おわりに Ⅱ 弥生前期環濠集落」『辻垣畠田・長通遺跡』所収、一九九四)。しかし、その性格を決定するにはまだ問題が多いようである。
弥生時代前期前半にさかのぼる集落調査は、この豊前地域では、辻垣遺跡が唯一の例であるが、この発見により、同じような地形を示す三つの河川の自然堤防・後背湿地にも未発見ながら、かなりの遺跡が存在する可能性が出てきた。辻垣遺跡群が立地する面は自然地理学的にみると、京都平野で扇状地にある最低位の段丘面にあたる。同じように分類される表層地形は、祓川右岸でみるとこの辻垣周辺と長井の海岸付近にある(千田昇「第二節 前田山遺跡周辺の地理的環境」『前田山遺跡』所収、一九八七)。長井には、前述のように弥生前期前半からの墓地も営まれている。こうした地理的環境は、まずこの行橋平野に定住を開始した集団にとって、開拓しやすい条件をそなえていたのであろう。
辻垣遺跡からは、かなりの頻度で扁平な打製・局部磨製石斧が出土している。中には、柄を装着するための加工も見られ、これらの石斧が原野を耕作地に開拓するために役立ったことは明らかである。
このヲサマル地区大溝の弥生前期層では、自然科学的な分析=花粉分析が行われた。地中に埋没した花粉は、長い間消滅・変化することなく残るという特性を生かした分析方法である。この結果、この遺跡の周辺には照葉樹林(常緑広葉樹林)が発達していたが、人間の進出によってその植生に変化がみられ、シイノキ属からアカガシ亜属の占有が高くなることがわかった。また、散発的に見られるタデ属・タネツクバナ属・スイバ属などは、水田とその周囲に見られる植物であることから、近傍における水田開発も想定されるようになった(畑中健一「辻垣遺跡の花粉分析」『辻垣ヲサマル遺跡』所収、一九九三)。