弥生前期の集落動態

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 辻垣遺跡の溝を環濠と評価するかどうか、その議論は分かれるだろうが、豊前地方で定型化した環濠としてまぎれもなく誰もが認知しうる遺跡は、苅田町白川所在の葛川(くずかわ)遺跡である。その環濠は、断面がV字型をしていて幅は最大二・六メートル、深さは深いところで一・九メートルを測る。この溝が、台地の上を東西五七メートル、南北四三メートルの卵形に巡り、その環濠に囲まれた内側から貯蔵穴が二七個発見された(図22)。環濠の掘られた時代は、弥生時代前期中頃(板付Ⅱ式)で、環濠内の貯蔵穴も同時期に始まる。
 
図22 葛川遺跡全体図
図22 葛川遺跡全体図(1/500)
図は『葛川遺跡』報告書掲載の遺構配置図と周辺地形図を合成した。環濠内側と環濠にかかる合計2軒の住居跡はその形状から弥生時代終末以後のもので,弥生時代前期に属す遺構は環濠と貯蔵穴である

 貯蔵穴は環濠が埋まった後も作られたらしい。というのは環濠を切った貯蔵穴が四基あり、環濠の外に作られた貯蔵穴も四基がある。環濠の内側にあるのは貯蔵穴だけで、この時代の住居跡はまったく見つかっていない。今まで発掘された他の多くの遺跡同様、環濠に囲まれた中は削られており、住居跡が削られてしまったのだろうと言われてきた。しかし、それにしては弥生時代中期以降の住居跡が残っているのは何故だろう。中期以降の住居跡が特別深かったわけではない。貯蔵穴を守るために掘られた環濠は、いったい何から貯蔵穴を守ったのだろう。
 この遺跡の発掘調査を担当した酒井仁夫氏は、その報告の中で環濠の内側に住居がない可能性を指摘している(酒井仁夫「Ⅴ おわりに」『葛川遺跡』所収、一九八四)。
 昨今、環濠の発生を耕地をめぐる近隣集落間の争いと絡めて考える意見が強いようだ。しかし、それならば何故人家を環濠で守らなかったのだろう。環濠の発生を巡ってはもっと違った意見があるに違いない。
 環濠が無くても、貯蔵穴群が住居域と別れて存在する遺跡もある。行橋市南泉五丁目に存在した鬼熊遺跡の例を見てみよう(写真11)。
 
写真11 鬼熊遺跡B区全体写真
写真11 鬼熊遺跡B区全体写真
右側(南側)に貯蔵穴が集中し,写真左側の切れたところにA区住居群がある

 鬼熊遺跡は、今川と祓川に挟まれた標高一八メートルの沖積台地上に立地し、遺跡の地形を微地形で見ると、遺跡のある箇所は島状に小高くなっていて、周囲は水田に囲まれ、その比高差は約二メートルである。
 したがって、鬼熊遺跡はそこで完結する一つの集落とみることができよう。このような立地環境であるから、幾時代にもわたって集落が営まれている。発掘調査でも、弥生時代前期・弥生時代終末・古墳時代前期・古墳時代後期の各時期の生活跡が確認されている。ここでは、弥生時代前期の集落に焦点を当ててみよう。
 住居跡は全部で三軒あり、開墾により削平された中央部を挟んだ北側のA区に集中している。二軒は、直径六~七メートルの大型円形住居で、残る一軒は、直径三メートル弱の小型松菊里型(しょうきくりがた)住居である。この二形態の住居は、機能差ではなく時期差と考える方が妥当であろう。
 一方、貯蔵穴は全部で五七基が確認されているが、このうちの四七基が南側のB区に集中しており、極端な片寄りである。この状態は環濠こそないものの、比高二メートルの周囲の水田をもって内側の集落内部に近寄る障壁とみれば、環濠と同じように遺跡が一定区画に集約された形態とみることができるだろう。
 鬼熊遺跡の集落は、弥生時代前期中頃に始まり、中期初頭に終わっている。最初に小型円形縦穴住居(2号住居)と貯蔵穴群が出現しているが、その規模は小さく、時間の経過とともに集落の発展する様子をうかがうことができる。