一方、海とは反対側の山の方に目を転じると、そこには木々の生い茂る山々が連なっている。
調査区の一画の、旧河川地区と命名された谷部の調査では、多量の木製品が出土している。それらは、他地域に見られる木器の材料と同じシイ・カシなどの常緑広葉樹が主体である。また、木製品だけでなくクルミ・シイなどの木の実も採取されている。集落近くの森林は道具を作るために伐採されたであろうが、山々にはまだ豊富な樹林が残されていた。
ところが、旧河川地区の木器には、ガマズミ・ニワトコなどの低木、エノキ・エゴノキなどの高木も含まれ、これらは下稗田遺跡のような人家近くの低丘陵地に生育する木である。すなわち、身近な木も次々に材料とされていったことがわかる(林弘也「下稗田遺跡から出土した木製遺物に使われていた木材の樹種」『下稗田遺跡』所収、一九八五)。
遺跡の周囲に森があればそこに生きる生物もいた。その生物の種類すべてがわかるはずもないが、運悪く捕らえられて当時の人々の食料となった動物の骨が、貯蔵穴の中から発見された。後世、当時の人々の生活を再現しなければならない私たちにとっては、逆に幸運なことである。
貯蔵穴から出土した動物のうちもっとも多い種類はイノシシで、つづいてシカである。いずれも大型獣の骨である。他に見つかったものには、イヌ・ノウサギ・スッポン・カメ類・ヘビ類・カエル類・鳥類である。必ずしもすべてが食用ではない。貯蔵穴のゴミをエサにして落ち込んだ動物もいるだろうが、それでも弥生人が多種多様な生き物を食料としていたことがうかがえる。壱岐原の辻遺跡では、イヌを解体して食料にしていた痕跡が発見され話題を呼んだが、ここではイヌは骨がバラバラに出てくるのではないことから食用ではなく家畜と考えられる。
下稗田遺跡のある丘陵から一歩平地に足を踏み入れると、そこは川の氾濫(はんらん)原でヨシが生えた湿地だった。現在の標高が八メートル前後の一帯である。その中を長峡川がしばしば洪水を引き起こしながら流れていた。そうした環境の中、下稗田丘陵は弥生時代前期から中期にかけて、弥生人の生活の舞台となった。