この丘陵に人々が住み着き始めたのは弥生時代前期の中頃である。
その発掘報告書では、出土土器は大きく五式に分けられている。
Ⅰ式=板付Ⅱa式=弥生時代前期中頃
Ⅱ式=板付Ⅱb式=弥生時代前期後半
Ⅲ式=城ノ越式=弥生時代中期初頭
Ⅳ式=須玖Ⅰ式=弥生時代中期前葉
Ⅴ式=須玖Ⅱ式=弥生時代中期後葉
である(長嶺正秀「下稗田遺跡出土の弥生時代前期~中期土器の編年的考察」『下稗田遺跡』所収、一九八五)。
下稗田遺跡は丘陵単位に四つの地区に分かれている。最も面積が大きい丘陵で、先のⅠ~Ⅴ式の土器が全時期にわたって使われ、ずっと継続した生活が営まれたⅠ地点、それよりも規模は小さいが、やはり長期にわたって集落の営まれたⅡ地点、規模はほぼ同じであるが期間が短いⅢ地点、小規模で継続期間も短いⅣ地点である。
Ⅰ地点はⅠ~Ⅴ期まで、総計一二八軒の住居跡、一六〇五基の貯蔵穴が営まれている。
その数をみれば、とてつもない大集落が継続しているようにみえるが、細かく時期ごとに色分けしてみると、その数に盛衰があることがわかる。
Ⅰ期に始まった集落は、Ⅱ期に爆発的に発達する(図24・25)Ⅲ期に引きつづいて集落の全盛期を迎え、Ⅳ・Ⅴ期は序々にその数を減らして衰退していく。
Ⅱ地点は、Ⅰ地点に遅れてⅡ期から始まる。住居跡数三二軒、貯蔵穴数二六九基がⅤ期までの間に営まれる。Ⅰ地点を母村とし、Ⅱ地点はⅠ地点からの分村であると報告書では述べられている。たしかにⅡ~Ⅴ期の盛衰はⅠ地点集落と歩調を合わせている。
Ⅲ地点はⅡ~Ⅳ期に集落が営まれるが、小規模で住居総数一三軒、貯蔵穴六二基が営まれる。このⅢ地点もⅠ地点の分村と考えられている。
Ⅳ地点はⅡ期だけの短い期間に営まれた集落である。規模も極めて小さく、一つの世帯共同体のみで構成されていたと考えられる。
各集落の地点を縦軸に、時間経過を横軸にしてグラフにすると図26のようになる。
まず、Ⅰ期段階にこの丘陵への定着が始まる。そして、Ⅱ期段階に人口の爆発的増加があり、Ⅰ地点集落の充実と新たなⅡ・Ⅲ・Ⅳ地点の丘陵への進出が始まる。ただしこれが自然の人口増か、他地域からの流入なのかはわからない。Ⅱ期にはⅠ~Ⅳの全地点に集落が展開する。しかし、この成長は継続せず、次のⅢ期には住居跡数の減少があり、Ⅳ地点ではその時期に集落そのものも途絶えてしまう。Ⅳ期は残ったⅠ・Ⅱ・Ⅲ全地点でさらに衰退が激しく、やがてこの丘陵は人の生活の舞台から離れてしまう。