村落の発展

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 いくつかの丘陵にそれぞれ分立するようにみえる集落も、こうした流れの中でみていくと、単独に存在するのではなく、関連したものであることがうかがえる。関連という言葉をもう少し具体的に言い換えると、「血縁」関係にある集団と言えるだろう。それは縄文時代に移動生活をしていた小集団による社会体制から一歩進んで、定住し、その各集団間の距離が縮まり、生産物の交換を通して経済関係が生まれつつある段階ということもできる。
 下稗田遺跡が開拓されるのは、弥生時代前期中頃である。それ以前には、すでに平野部に辻垣遺跡群が成立していることから、そうした集落が生産力を向上させ、農地開拓のため、下稗田遺跡などの丘陵部への進出を果たしたととらえることもできるだろう。
 その時代に開始される水田稲作農耕が、丘陵下の湿地に水路や畦を造成することによって可能になる。事実、下稗田遺跡の谷部にある旧河川地区の発掘調査では、そこから諸手鍬・広鍬(ひろぐわ)・狭鍬(さぐわ)・耕具柄などの農耕具類が多数出土している。収穫用の石庖丁も出土している。このような出土遺物から、下稗田遺跡下の平地の一画に水田が営まれていたことは確実である。
 京都平野で最初に水田稲作農耕を始めた集団も、そればかりを食料獲得の手段に限るのではなく、縄文時代以来豊かな資源を育んできた丘陵地に進出することで、水田稲作と山の幸を併用、補完しながら生活の糧としてきた。下稗田遺跡はそのような過程で営まれた遺跡である。もともと縄文時代人は、海の幸・山の幸を享受してきた。平野に面した丘陵部が自然に生育する食料の確保に適した地であることは明らかである。
 さて、もっと身近に下稗田遺跡に住んだ人々の生活を見てみよう。Ⅲ期(弥生中期初頭)の時期に焦点を当ててみる。
 Ⅰ地点には六軒くらいの竪穴住居が造られている。各住居の間は約四〇メートルである。住居と住居の間には貯蔵穴が作られている。Ⅰ地点の丘から南側を臨むと、Ⅱ地点、Ⅲ地点にも同じような景観が臨めたであろう。集落がやはり丘の上に作られている。
 Ⅰ地点の発掘成果をみると、竪穴住居跡・貯蔵穴などが所狭しと作られている。とても六軒どころの住居ではないようにみえる。しかし、これは弥生時代前期中頃から中期前半にかけて約二〇〇年間に作られたものである。Ⅰ地点は全部で一二八軒の住居が作られている。竪穴住居がどのくらいの期間維持できるのかわからないが、約一〇年間もつものと考えると一時期に何軒の家があったのかは次のように計算できる。
  128軒÷(200年÷10年)=6.4軒
 すなわちある任意の一時点だけに限ると、Ⅰ地点には六~七軒の竪穴住居が作られていたことになる。一時期だけを抽出してみると竪穴住居はどちらかというと閑散として作られていたのである。ただ、長い間そこに住み続けたのでこれだけの大遺跡となってしまったのである。
 貯蔵穴はもっと耐用年数が短かったと思われる。Ⅰ地点では一六〇五基の貯蔵穴があるが、これを一軒の縦穴住居に対応する数に当てはめてみると。
  1605基÷128軒=12.5基
になる。とても一〇年はもたないであろう。もし竪穴住居の半分、五年の耐用年数とすると
  12.5基÷2=6.25基
 一軒の住居に六基の貯蔵穴が伴う程度と考えられるだろう。それでは各住居間には貯蔵穴しかなかったのであろうか。発掘調査では何も構造物が見つからないが、単に草が生えた空き地だったとは考えにくい。発掘調査ではなかなか検出しにくい畑があったのであろう。幸い小郡市三沢蓬ケ浦(みつさわふつがうら)遺跡では、畑が偶然埋まったままの状態で発見され、この時代の住居のまわりに畑が作られている例も明らかになった。
 家畜も飼っていただろう。下稗田遺跡では貯蔵穴の中からイノシシの幼児(ウリボウ)の骨が出土している。ウリボウをとらえて成長させて食料とすることもあったはずである。
 先の三沢蓬ケ浦遺跡では、畑に隣接して家畜小屋も検出されている。家畜の糞尿を貯え、それを発酵させて肥料にするための穴もあっただろう。今までは人間もそのあたりで用をたしていたと思われていた。しかし、家の近くに耕作地があるとなれば、人間の便も重要な肥料となるだろう。それを貯える穴もあったはずだ。そうした諸々の施設が集落の中にあったと思われる。
 遺跡ができた時から二〇〇〇年がたった現代の発掘調査で見つけた遺構が、すべて、当時の村落の姿ではない。消えたものも含めて復元していくところに考古学のおもしろさがある。