弥生時代を説明するとき、それをもっと細かく分けて、そのうちのどの段階であるかを判定する基準材料が土器である。
土器が時代によって変化し、それが各地域とどのような交渉があるのか、そのあらましは、第三章第一節二を参照していただきたい。ここでは、行橋市を中心とした京都平野の弥生土器の移り変わり、各地域との交流について述べることとする。
それにはまず、表題にある「土器文化圏」について説明しなければならない。
話し言葉を例にして考えてみよう。話し言葉は地方によって違っている。ある地域ではほとんど同じであるにもかかわらず、川や山を越えるとガラリと変わるということがある。つまり、話し言葉にはその文化圏ともいうべき空間的な広がりがある。それと同じように、土器にも文化圏がある。ある土器が他の場所から持ち込まれても、それに違和感を持つ地域と持たない地域がある。違和感のない地域的な広がり、それが土器文化圏である。
土器文化圏は人の交流によって生まれる。特に土器作りの担い手となる女性が結婚などによって動く範囲、これを通婚圏というが、それは土器文化圏と密接につながりがあると考えられている。その文化圏の範囲は、山や川、海など自然地形が境になることが多い。なぜなら、川や山は人間の行動をさまたげるし、そこに住んでいる人間も少ないので、伝達される情報の量が減少するためである。
行橋市は長峡(ながお)川・今川・祓川の三河川の下流域に広がる京都平野の中心にある。これらの川はそれほど川幅があるわけでもなく、それによって文化圏が分かれることはない。京都平野は、大きく見ると、東を周防灘に、東から北を平尾台に、南を英彦山(ひこさん)山系に囲まれた三角形をした地形になっている。これが行橋市の属している京都平野の弥生土器文化圏である。このまとまりは弥生時代全般を通して動くことはない。
このようにまとまった一つの地域にも、地理上、三カ所の出入口がある。北側の出入り口は平尾台と周防灘の間を抜けて、北九州市域につながる海岸沿いのルートである。西側は、峠を越えて遠賀川中流域につながるルートである。南東側は、海岸沿いに山国川流域中津平野へとつながるルートである。そしてその出入口の先には、それぞれまた別の土器文化圏が存在している。
京都平野内の人の動きは活発で、そこに土器に対して共通する認識が生まれたのであろう。しかし人の動きはその内側に留まり、外部との交渉は自然地形によって阻まれた。その結果として、土器にも違いが生じる。
土器の違いとは具体的にどういうものか。
目に見えるものには、形・色・大きさ・文様などがある。目に見えないものには、使われた土、作り方などがある。
これらの違いを一つ一つ詳しく見ていくことによって、京都平野弥生土器文化圏の中での土器の変遷を読み取ることが可能になる。