弥生時代前期土器は、いままでの研究の中で、前期前半の板付Ⅰ式土器、前期中頃から後半の板付Ⅱ式土器に大きく分けられ、その板付Ⅱ式土器はさらに二つないし三つに分ける考えが出されている。二細分するか三細分するかは、その地域の土器変遷の実態に合わせて考えることである。その観点から京都平野周辺を見ると、板付Ⅱ式の中には、板付Ⅰ式の流れを汲む土器と縄文土器系の夜臼式から脱却した土器が一緒に出てくる段階、その両系統の土器が融合して地域色が現れ始める段階、そして、他地域との土器文化の交渉が盛んになって、それらを取り入れて地域色が一層顕著になる段階の三段階を想定することができる。よってこの京都平野では、板付Ⅱ式をa・b・cの三段階に細分することが可能である。
京都平野の弥生前期遺跡の調査例はたいして多いとは言えないが、前期の各時期にわたって、まとまった土器が出土している。そして運が良いというのか、一つの遺跡が短期間に営まれていることが多いため、その遺跡から出土した土器をあまり操作せずに単純に一時期のものとしてあげることが可能である。
まず、弥生時代前期の最初の土器を行橋市辻垣遺跡で代表させることができる(写真13)。
辻垣遺跡の土器群の特徴を一言でいうならば、新しい土器文化の流れである板付Ⅰ式土器の流れの土器と、旧来の縄文土器である夜臼式土器の伝統を持つ土器が個々に存在していると言える。つまり両系統の土器が融合することなく、混在することになる。京都平野だけではなく、豊前地方に最初に出現した本格的な弥生土器のセットはこのような姿であったとみることができるだろう。
甕には如意(にょい)形口縁を持つものと刻目突帯口縁をもつものの二種類がある。後者の特徴的なものに口縁下に貼付けの刻目突帯を廻らすもの、あるいは頸部と胴部の境にある外傾部から内傾部への反転がはっきりして、その箇所に刻目突帯を廻らすものがある。辻垣遺跡から出土した土器には口縁部と胴部境の反転がなだらかになったり、刻目が周回しなかったり、いろいろな部分で退化したものも多い。
一方、壺のほうは、板付Ⅰ式土器の特徴である口縁下の貼付けによる段や、しっかりした円盤状の底部などがない。そうした点で、これらを夜臼系の壺の系譜をひくものとみる意見もあるが、肩や胴につく様々な文様は板付Ⅰ式土器に見られる重弧文や有軸羽状文に共通するものも多い。
この辻垣遺跡に併行する土器群は、長井遺跡で発見された土器の一部にもある。長井遺跡で、夜臼式土器としてあげられるものは甕に限られ、板付Ⅰ式土器とされるものは壺に限られている。両者が弥生前期のある段階まで共存することは各地でも確認されている。
したがって、長井遺跡の始まりを縄文時代にまでさかのぼらせる必要はなく、弥生時代の初め、もっと具体的に述べるならば、京都平野の弥生時代の開始とともに始まったと言えるだろう。
京都平野における弥生土器の最古の一群が辻垣遺跡と長井遺跡に見られるのであるが、これらの土器は京都平野における「板付Ⅰ式土器」と呼ぶことができるだろう。
玄界灘沿岸の一部地域では、板付Ⅰ式土器が分布することが明らかになっている。これは昭和二六年に福岡市板付遺跡で発掘されて明らかになった土器群である。しかし、北九州でも玄界灘沿岸部以外の地域では、そのまま板付Ⅰ式土器の条件を満たしたものが出土しないことも明らかになっている。そこで、板付Ⅰ式は限定された地域にしか存在しないという論も出てくるわけである。それでも、各地で同時期に位置づけられる遺跡が、相次ぎ発見されている。辻垣遺跡もその一つである。現段階では、即座に辻垣遺跡の土器の一群を「板付Ⅰ式土器」と呼べないまでも、「板付Ⅰ式併行土器」とすることには異論はないだろう。もちろん、玄界灘沿岸部の板付Ⅰ式土器の時間幅と京都平野の板付Ⅰ式土器の時間幅には完全に一致しない部分があって当然である。