火襷(ひだすき)文土器

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 辻垣ヲサマル遺跡の円形周溝から出土した土器群には、弥生後期の土器が若干含まれるが、大半を占める前期の土器群を抽出すれば、それは板付Ⅰ式併行段階に限定して位置づけることができる。
 その中でひときわ目を引く土器がある(口絵9頁)。その土器は底部を欠いた壺型土器で口径二一センチメートルを測る。外反する口縁の下には段が付き、器面の調整は外面が全部ていねいなナデで、内面の頸部以上は横方向のミガキである。ここまではごく普通の土器と変わらないのだが、最大の特徴は表面に付いた幾筋もの黒褐色の斜め線である。
 この文様が偶然付いたのではなく、意図的に付けられたものであることは明らかである。しかし、これがどのような技術によって付いたのかは報告されていない。ここでそのメカニズムについて考えてみよう。
 まず、文様の子細(しさい)な観察から始める。大きくみると、表面の色調は、黒褐色部分と黄褐色部分に分かれる。黒褐色部分は、口縁部全体から頸部の上から三分の二の位置まで一様にある。頸部の残り三分の一は、黄褐色部分が多いが、黒褐色の筋が一部に及んでいるところもある。胴部は全体の六分の一しか残っていないが、そこには全体に黒褐色と黄褐色の右下がりの縞模様が見られる。見ようによっては、黄褐色の生地に黒褐色の筋が付いているようにも見える。
 この黒褐色の正体は何であろう。黒褐色の顔料を塗ったものではない。少なくとも異物が表面に付着した痕跡は認められない。とすると、焼成時における土器表面の化学変化の差とみることができる。土器焼成時に温度が上がらずに酸素の供給が少なく酸化か進まなかった部分、すなわち黒斑(こくはん)である。
 こうした痕跡は、多くの土器で偶然に付くことがある。土器を焼く段階で、燃料の木が土器に着いたままになった場合や土器の底が地面に着いたままになった場合には、その接触部は全体の色と異なって一部だけが黒褐色になることがある。私たちはこれを黒斑と呼んでいる。
 表面温度の差による色調の違いから起きる現象を、現在でも意図的に用いている焼き物が備前焼である。備前焼の場合は袖薬を塗らず焼きしめだけで焼き上げるが、その際に、あらかじめ縄を巻いておき、焼き上がったとき、それが襷(たすき)のような文様に見えるのである。これは備前の火襷と言われている。
 古代の土器でも、黒斑を意図的に付けて文様化した土器がある。周防灘を挟んだ四国の愛媛県松山市大淵(おおぶち)遺跡から出土している壺型土器には、その胴部上半に、周囲の赤褐色の中で黒斑が縦方向にのびているものがある。その文様がヤツデの葉に似ていることから「ヤツデ状文様」と呼ばれている。ヤツデ状の文様を持つ土器は、朝鮮半島の前期無文土器壺に起源を求められる。大淵遺跡のヤツデ状文様を持つ土器は、縄文時代晩期後半のものなので、時間的な関係からみても朝鮮半島無文土器と関係あることは明らかである。
 大淵遺跡の土器と辻垣ヲサマル遺跡の土器の関係はわからない。しかし、その技術が突然この地で発生したとは考えられない。そこに直接の関係はなくとも何らかの技術的系譜を考えるべきであろう。
 ところで、その文様表現の手法を、もう少し詳しく考えてみたい。
 まず壺の上部、すなわち頸部三分の二以上が、全体に黒褐色になっている点に注目したい。これは、この部分をぐるりと何かで巻いたことを示している。それは布の様なものでも良い。そしてその下の縞文様であるが、これは備前焼火襷文と同じように縄を巻いていくとどうなるのだろう。縄を底部にかけ、それから頸部に回し、再び底部に回す。その連続によって、一定間隔をおいて、土器全体を縄でくるむことが可能となる(写真14)。
 
写真14 土器に火襷文をつけるために紐(縄)を巻きつけて復元した様子
写真14 土器に火襷文をつけるために紐(縄)を巻きつけて復元した様子

 弥生時代前期前半の土器に見られる珍しい文様について紹介してみた。