これに続く段階の土器群を出土する遺跡は苅田町葛川(くずかわ)遺跡である(写真15)。この一群の土器の特徴は、弥生板付Ⅰ式土器系統と縄文夜臼式土器系統の各要素に融合がみられつつも、まだ両者は別個に発展している。
器形を見ると、甕には頸と胴の間の境がはっきりしたものがなくなり、口縁下を廻る突帯の刻目が無いかあるいは微弱になる。壺は器形にさほど変化はないが、一時的に頸と胴の文様が簡素化する。
この段階を板付Ⅱ式土器の古い段階である「板付Ⅱa式」とすることができる。
これに後続する段階の土器は、下稗田遺跡の中の古い段階の土器がそれに相当する(写真16)。一つの遺跡で単純な土器形式を捉えられればそれに越したことはないが、残念ながらそうした遺跡は未発見である。この段階の土器群は、京都平野における弥生前期土器が、自立・成長する段階とみることができる。甕においては、豊前・豊後地方に隆盛する下城式土器の萌芽が認められるし、壺は、一時衰退した頸・胴部の多飾化が認められる。
この一群の土器は、下稗田遺跡報告書の中で、下稗田遺跡Ⅰ式とされているものであり、板付Ⅱb式に併行する段階として位置づけることができる。
さて、続く板付Ⅱc式という設定には、多くの問題が残されている。研究史をひもとくと、必ずしも一致して板付Ⅱc式という段階が設定されているわけではないからである。とは言うものの、弥生前期の土器が板付Ⅱb式で終わってしまうのかと言えばそうではない。板付Ⅱb式に続く前期末段階の土器群を設定する動きがある。
かつて北九州市高槻(たかつき)遺跡出土土器のうちの一部が「高槻式土器」として設定され(杉原荘介「遠賀川―筑前立屋敷遺跡調査報告」一九四三)、それは後に分離され、壺において貝殻施文やヘラ描きにより装飾の施行された土器をもって、それらを前期後半~末に位置づける考えが示された(小田富士雄「高槻遺跡弥生式資料集成 土器編」一九六一)。
高槻式土器は北九州市域のローカルな形式ではあるが、その多飾化傾向は豊前地方をも含めた遠賀川以東の全域に共通している。ここでは、下稗田遺跡Ⅱ式をこの段階の土器に相当させて先を進めたい。
この板付Ⅱc式土器の最大の特徴は、壺における頸部・胴部文様の多種多様さであろう。特に貝殻腹縁を押し付けて描く羽状文・有軸羽状文・複線連弧文・複線山形文など文様の多様さには目を見張るものがある。
高槻遺跡同様、豊前地方の中ほどにある大平村下唐原遺跡でもその時期の良好な資料が出土している。
この章のいちばん最初に土器文化圏について述べたが、その際弥生時代全体を通じて、京都平野を一つの土器文化圏に設定した。
しかしほんの一時期ではあるが、平野単位で特色を持って分散した文化圏が集合して広範囲になることもある。この弥生前期末が、そうした時期である。
壺の多飾化傾向に貝殻を用いる技法は、西は遠賀川流域、南は宇佐平野、そして、東は周防灘を越えて中国西部・四国北西部と共有する。個々に違いはありながら個性があまり表面化しない一群が周防灘沿岸地域に展開し、その流れは日本海を丹後まで東進するダイナミックな動きを見せる(図27)。