弥生時代中期土器

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 京都平野の弥生時代中期土器は、城ノ越式→須玖Ⅰ式→須玖Ⅱ式の変遷がみられる。もともと北部九州の弥生時代中期の土器は、口縁形状が逆L字状をなすものという定義を前提としている。須玖式土器といって、春日市須玖遺跡で発見された土器を標識とするところから始まった。それが調査例を増すとともに、前述のように三分されたのである。
 ところが北部九州にあっても、遠賀川を境にして、その東側地域では、単純にその考えが当てはまらないのである。この京都平野も、ここではいつまで経っても口縁の上端が平らな逆L字状口縁に変化することはない。
 そうするとこの平野では、ある程度は独自性を持った土器の変遷を考えなければならない。
 中期初頭に併行する段階の土器群は、現在のところ下稗田遺跡のⅢ式、前田山遺跡のⅡa式に対応される(写真18)。
 
写真18 弥生時代中期の下稗田遺跡出土Ⅲ・Ⅳ式土器群
写真18 弥生時代中期の下稗田遺跡出土Ⅲ・Ⅳ式土器群
上段がⅢ式,下段がⅣ式

 この段階は、甕口縁部に大きな変化が見られ、口縁がはっきり外側に折れて、折れた先は直線状に伸びている。そうした口縁形状は主流派で、中には口縁が直口あるいは少し外反し、その直下に突帯が廻るものがある。しかし、このタイプのものが見られるのもこの段階までである。底部にも大きな変化が現れる。内底から接地面までの長さが急激に長くなる。つまり上げ底になる。
 壺にも大きく変化が見られる。器形を見ると、口縁の上端にもう一段重ねて平坦面が大きくなり、鋤先状になるものが出現する。底部も詳細に見ると厚くなっている。器形はともかく、最も大きく違うのは壺を飾る方法の変化である。それまでは貝殻やヘラで多様な文様を競っていたが、その文様が簡素になり、変わって彩色によって飾るものが出現する。一気に変わるのではなく、この段階は次の段階への過渡期である。
 京都平野のこの時期は、遠賀川流域における中期の最初の土器段階と連動しているが、短く外側に折れる城ノ越式土器とはかなり様相を違えている。無理に併行関係に持ってこなくても、城ノ越式土器に併行する段階から、須玖Ⅰ式土器に少し入るくらいの時間幅を考えておくと、遠賀川以西地域との土器文化交渉を素直に語れる。
 下稗田遺跡Ⅲ式土器に見られるように、全体を丹塗磨研する技法も筑紫平野北部で最初に出現する須玖Ⅰ式段階に併行すると考えれば、この京都平野で唐突に出現したものではないことにも説明がつく。おそらく福岡平野・筑紫平野における城ノ越式土器=中期初頭という時間幅よりも広いのであろう。したがって、ここでは、下稗田Ⅲ式土器の時代は中期前葉という表現で捉(とら)えておきたい。