弥生時代後期土器の簡素化

296 ~ 297 / 761ページ
 華麗さを誇った弥生中期の土器文化も、後期に入るとその様相が一変し、装飾性が急激に消失して実用本位のものになる。
 甕は口縁が水平に近く倒れていたものから「く」字形に立ち上がり、突帯を持つものがほとんどなくなってしまう。仕上げの調整もハケ目が粗く雑になる傾向がある。
 甕のように、もともとその用途が煮炊きなどの実用的なものに比べれば、壺・高坏などどちらかというと、最初から装飾の機能を含んでいる器種では、その変化はもっと大きい。
 壺は、丹塗磨研という装飾技法が採用されなくなり、表面は単に手で撫でただけの簡素なものになる。器形も大型広口壺がなくなって、全体の大きさに対し、容量の大きな胴部と短い口縁の付くものが主体となる。
 高坏にいたっては、その変化が最も顕著で、高坏自体の量が激減してしまう。特に京都平野においては、その良好な出土例がほとんど見当たらないという有様である。
 このような土器文化の劇的な変化があった背景には、弥生後期社会そのものに大きな変化を考えなければならないだろう。それは須玖式土器段階に見られたように、北部九州の弥生社会が高度に成長し、その活力が土器文化に反映された姿とは逆の姿である。
 ところが、このように停滞した後期の始まりも、時間の経過とともに新たな展開を迎えることになる。それは、周防灘を介して、東瀬戸内の各地域から、その地域の土器が持ち込まれたり、その土器を作る技術が京都平野の在地土器の製作技術に影響を与えるなど、新しい土器文化が生まれることである。
 それはまず、弥生後期の前半から徐々に目に見えてくる。
 辻垣長通遺跡の大溝三層からは弥生後期前半の土器がまとまって出土している。報告書によれば、大溝から出土した土器の三九%が、瀬戸内地域の影響を受けた外来系土器であるという(柳田康雄「2外来系土器(2)弥生後期の交流」『辻垣畠田・長通遺跡』所収、一九九四)。
 北部九州全体を見渡しても、弥生時代後期に入ると須玖式土器の系統が途絶え、地域色が強くなる傾向がうかがえる。そうした中で、京都平野では外来系土器の流入という現象を、地域色の現われと解することができる。
 この傾向は、時代が下がるとともにさらに深まっていく。辻垣長通遺跡の弥生後期終末から古墳時代初期にかけての土器は、その出土土器量のうち実に九四%が外来系土器となり、残る六%が在地系土器に過ぎないという分析結果が出されている(柳田康雄前掲)。また弥生後期前半は、近畿系統の土器がほとんど見られなかったのに対し、この弥生終末から古墳時代初期にかけては、逆に近畿系統が瀬戸内系統をわずかではあるが、上回っているという結果も出ている。
 このように、瀬戸内や近畿との強いつながりが現れるのは、北部九州において、豊前地方にみられる大きな特徴である。特に西日本全域に政治的な関係が出てくる弥生時代後期後半以降では、周防灘を介して近畿・瀬戸内につながるこの地域の土器文化の宿命でもある。古墳時代に始まる大和王権を中心とする各地域との連合体制構築の動きが、強く反映していると見なすことができるだろう。