下稗田遺跡にみる石器の変革

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 京都平野に農耕文化が導入された段階を辻垣遺跡にみることができるとすれば、その次の段階にあたる弥生時代前期後半から中期前半にかけては、農耕文化が定着する段階とみることができるであろう。その代表的な遺跡が、下稗田遺跡である。
 下稗田遺跡の石器資料を中心にして、鬼熊遺跡、前田山遺跡の同時期の石器で補いながら、農耕集落の中で石器が確立する姿をみていくことにしよう。
 まず、縄文系石器についてみていくことにする。縄文系石器の代表格である打製石斧は、相変わらず膨大な数が発掘されているが、その石材の種類は前段階と同じ緑色片岩、砂質片岩など京都平野周辺の変成岩帯産出石材が多数を占める。しかしそればかりではなく、新たに関門層群脇野亜層系の細粒砂岩、緑色凝灰岩製のものが多量に加わり、福智山の熱接触変成岩帯の変斑(へんはん)レイ岩を素材としたものも少数見られるようになる。膨大な数量の打製石斧をまかなうために、新たな産地が見出されたということではないだろうか。