大陸系磨製石斧には断面が円形になって粗割に使用される太型蛤刃石斧と、種々の加工に使用される片刃石斧がある。
このうち太型蛤刃石斧は、下稗田遺跡では他の石器を圧倒して多量に出土している。その石材を見ると、九割以上は金剛山系の火成岩帯に産する細粒閃緑岩・細粒ヒン岩・ヒン岩を素材としたものである。若干数ではあるが、英彦山系安山岩や産地不明の斑レイ岩、粗粒玄武岩製のものもある。これらも強(し)いて言えば金剛山系火成岩の一部と考えられなくもない。このような太型蛤刃石斧の出土割合は、行橋市内の同時期の遺跡である鬼熊遺跡、前田山遺跡も同じである。
この弥生時代前期後半以後、弥生社会全体が安定し、それに伴った各地域間の流通システムも確立していくが、石器の原料も一極に集中する現象はその現われとみることができるだろう。
下稗田遺跡では二〇点ほど玄武岩製の太型蛤刃石斧がある。これらの石斧は、従来「今山型」として認識されていた。その今山型玄武岩製石斧の広がりをもって、原産地の福岡市今山を起点とした弥生時代の石器流通システムが論じられてきたところであった。
もっと近くに玄武岩の産地はないのだろうか。玄武岩の露頭は、行橋近辺では、北九州市響灘に浮かぶ六連島(むつれじま)や八幡西区城山・妙見山、筑豊炭田地帯などに点々とある。これらがいつ頃開発されて、石材供給地になったのか、今山以外の玄武岩産地も再検討が必要になるだろう。
下稗田遺跡からは縄文系の石斧も多数出土しているが、これらは前時期と変わらず変成岩帯に産する片岩が素材である。大陸系の太型蛤刃石斧はその形態・大きさ・重量など機能が重なる部分が多いと考えられ、両者の折衷(せっちゅう)形態のものも見られる。
両系統の石斧は消費地では併存するが、それらの使用石材となるとはっきり分けられるのである。縄文系石斧の素材は京都平野周辺の変成岩がほとんどで、それに少量の関門層群脇野亜層の堆積岩が用いられるのが基本となっている。これに対し、太型蛤刃石斧の系統は金剛(こんごう)山系の火成岩を使用したものが大半を占め、それに若干の産地不明の玄武岩、福智山系の変成岩が用いられる。
このように石斧の系統によって石材が色分けされるのは、石器製作者が石斧の形態・機能にあった石材を選択する知識を身に付けていたことによる。最終的に製品に仕上げられた場所が両系統の石斧では異なっていたことも考えられる。
太型蛤刃石斧以外の大陸系磨製石斧にあたる柱状片刃石斧、扁平片刃石斧などは、多少の例外はあってもシルト岩・頁(けつ)岩などの関門層群脇野亜層の堆積岩が用いられ、特にシルト岩と頁岩が層状に重なった酸性質の石が好まれている。強さよりも層が織りなす美しさを意識して作ったようにみられる。