京都平野周辺の石材産地

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 京都平野の遺跡から発見される石器の石材は、周辺の岩石帯から運び込まれたものである(図32)。基本的に京都平野の中は河川の堆積による沖積地のため石材を産出しない。その周辺の丘陵地帯は花崗岩帯なので、ごく近くで石を取ろうとすれば花崗岩しかない。花崗岩は肌理(きり)が粗(あら)く、細かな細工には向いていないので、せいぜい台石や磨石として使われる程度である。
 
図32 下稗田遺跡の弥生時代前期後半の石器とその石材産地の関係
図32 下稗田遺跡の弥生時代前期後半の石器とその石材産地の関係
(矢印は群からの供給を示すもので,特定の場所を示したものではない)

 京都平野のすぐ南側の丘陵部にある変成岩帯が最も近くにある石材供給地である。ここの石は破片となって河川に流されているので、川原でもこの石を入手することができる。この変成岩帯は、今から約二億年前に堆積岩地帯が広域変成作用を受けてできたものである。この変成岩帯で産出される緑色片岩、蛇紋岩、泥質片岩などは、縄文時代以来弥生時代に至るまで引き続いて石斧の材料となり、弥生時代前期前半でまだ関門層群堆積岩の供給がない時には石庖丁の原料にもなっていた。硬度はあまりなく、薄く剥がれる特徴のある石材である。
 京都平野の西側、遠賀川流域から北九州を経て下関にまで関門層群が広がっている。これは今から一億五千万年前から一億年前までにできた白亜紀前期の堆積岩層である。この層から産出される石材には、凝灰岩・頁岩・砂岩などがあり、硬く、剥がれやすい特徴がある。弥生時代前期後半以後、立岩産石庖丁として各地域で高いシェアを占めるものも、この層から産出されたものである。
 北九州市八幡東区から小倉南区にかけての関門層群に、白亜紀後期、約九〇〇〇万年前頃に貫入した火成岩帯がある。ここから産する石は細粒閃緑岩やヒン岩で、硬く加工しにくい石材であるが、衝撃に強いため石斧の素材になっている。同じく福智山にも石斧に使用される石材を産する。これは約二億数千年前にできた古生層に貫入した火成岩で、周囲の堆積岩とともに広域変成作用を受けた変斑レイ岩などである。その他に若干量でしかないが、英彦山周辺で産する角閃石を含む安山岩も石斧の原料となっている。
 玄武岩は福岡市今山が産地として有名であるが、これはおよそ四〇〇万年から一〇〇万年前に噴出した火成岩である。行橋周辺でもその露頭が玄界灘から響灘沿岸部にあり、点々と知られている。北九州市六連島、八幡西区城山・妙見山、下関市貴船町、筑豊炭田などである。こうした産地は、行橋から見れば今山よりも近い距離にあるが、当時、発見され開発されていたかどうかはわからない。