鉄斧は朝鮮半島で作られた鋳造製品がこの地にもたらされた可能性が高く、下稗田遺跡でも鋳造鉄斧が三点出土している。併せて興味深いのは、その鋳造鉄斧の断片がさらに加工されて板状鉄斧になって利用されていることである。この板状鉄斧は五点出土しているが、鋳造鉄斧が破損したかけらを使って再加工した可能性が高い。
当時の鉄は極めて貴重な素材であるから、たとえ破損して小さな破片になったとしても、このように最後まで使い切ることになったのであろう。
下稗田遺跡だけでなく、豊前地方には、新吉富村中桑野遺跡でも弥生時代中期初頭の貯蔵穴から出土した鉄斧があるが、これは明らかに鋳造鉄斧の側面の部分を再加工した製品である(新吉富村教育委員会『中桑野遺跡』新吉富村文化財調査報告書第三集、一九七八)。
下稗田遺跡の鉄製品が一〇点とはいえ、弥生時代中期前半以前の段階に豊前地方で下稗田遺跡ほど多くの鉄製品が出土した遺跡はない。物資の集積する場所は経済的に地域を主導する遺跡の可能性がある。下稗田遺跡の鉄製品は、下稗田遺跡の京都平野における地位を物語っている。
豊前地方では他地域同様、弥生時代の鉄製品が墳墓に副葬される例は多いが、鉄製品が普及し始めると一般的な集落遺跡からも発掘されるようになる。築城町安武・深田遺跡では中期後半の住居跡から鉄鍬や鉇(やりがんな)などの小型鉄製品が出土し、築城町赤幡森ケ坪遺跡や新吉富村池ノ口遺跡では後期前半から中頃にかけて包含層・住居跡から鉇が出土している。後期後半から終末期にかけては一遺跡から出土する鉄製品の量が急激に増加する。環濠がめぐる大平村唐原遺跡群では、住居跡から鉄鎌・鉄鏃・鉇などが多量に出土していて、この時期に鉄製品が一挙に普及し始めたことをうかがわせる。