弥生時代前期から中期前半の遺跡は下稗田遺跡に代表されるとおり独立した丘陵にあって、周囲が谷に囲まれているためそこだけで完結する立地になっている。いっぽう弥生時代中期後半以後の遺跡は平野の微高地にあって、いったいどこまでが集落の広がりかわかりにくいことが多い。しかもその集落遺跡の多くが弥生時代中期後半から後期にかけて少しずつ場所を移動するので、その広がりはさらに把握しづらくなっている。
下崎ヒガンデ遺跡や高瀬と馬場にまたがる代(だい)遺跡はその代表例である。どちらの遺跡も弥生時代中期後半からそれ以後の時期に主体がある集落遺跡である。
下崎ヒガンデ遺跡の場合は圃場整備によって削平される部分の一万七〇〇〇平方メートルが調査されたが、そこから円形竪穴住居七軒以上、方形竪穴住居八三軒以上、貯蔵穴三八基以上、掘立柱建物三〇棟以上、甕棺三基、その他溝状遺構などが発掘された(写真23)。出土した土器からみるとそれらの竪穴住居の時期は、弥生時代中期後半から後期にかけての一群と古墳時代前期にかけての一群があることがわかっている。しかし、まだ土器の整理が終わっていないため遺構の細かな時期はわからない。
どこの遺跡でも貯蔵穴は集中して営まれているが、この下崎ヒガンデ遺跡でもその一画に二〇基以上の貯蔵穴が集中する状況がみてとれる。貯蔵穴の時期は弥生時代中期後半である。同時代の円形竪穴住居は分散して営まれているのに、貯蔵穴に入れられる食糧の管理だけはまだ個々の住居に付属するのではなく、ムラ全体で一括集中して管理される体制がとられているようだ。貯蔵穴のすぐ東側には谷があり、そこでいったん集落も途切れることから、貯蔵穴群は集落の中でも隅の一画に制限されて営まれていることがわかる。
弥生時代中期の住居跡は長木(おさぎ)宮ノ下遺跡から、掘立柱建物は下崎瀬戸溝遺跡からも発見されているが、いずれの遺跡も市道建設に伴うもので、道幅の調査にとどまるために発掘面積が小さく詳細は不明である。貯蔵穴は高来小月堂(たかくこづきどう)遺跡でも確認されている。