集落の立地という点から注目される遺跡に入覚(にゅうがく)コウチ遺跡がある。ここは市内西部にある幸ノ山(標高一七八メートル)の東麓に派生する支脈にある。標高八〇メートルくらいの高所にある上、狭い尾根上に立地していて、そのうち約五〇〇平方メートル程度が発掘調査された。ここからは二軒の円形竪穴住居が発掘されている。問題となるのはこの立地では周囲に水田稲作に適した土地がないということである。したがって一般的な弥生集落のように水田稲作農耕を主体とする集落ではないことがわかる(写真24)。この遺跡からは縄文時代後期から晩期の土器も出土していて、まだ本格的な農耕に移行する前から人々の生活する場であったらしい。周囲の集落で水田稲作農耕が営まれる中で、縄文時代以来の生業に多くを依存しているこの入覚コウチ遺跡のような小規模集落があったことを忘れてはならない。
入覚大原(にゅうがくおおばる)遺跡はその入覚コウチ遺跡の麓にある標高三〇メートル位の台地上に立地する遺跡である。北側に緩く傾斜した面に弥生時代中期の円形竪穴住居跡と掘立柱建物などの集落がある。北側前面が一段低くなっていて水田稲作農耕地として利用されていた可能性が高く、こうした立地が当時の一般的な立地といえるだろう。北側低地に面した部分を東西に走る大溝で画している。大溝の時期は弥生時代中期で、同時期と考えられる円形竪穴住居や掘立柱建物がその溝よりも台地側、つまり南側から発掘されている。大溝の役割がいまひとつ不明であるが、この溝を掘ることによって、南北に分断された区域が生まれることに意義があるのかも知れない。
谷よりも南側の台地は、更に南北に延びる浅い谷により東西に分断され、その東側からは中期の甕棺墓群が発見され、西側からは住居を中心とした集落遺跡が確認されている。溝が日常的な生活空間と非日常的な墓域を区画した可能性がある。遺跡から発掘された主な遺構には竪穴住居跡一〇軒、掘立柱建物跡一三棟、貯蔵穴三基などがある。