朝鮮半島土器文化の影響

319 ~ 321 / 761ページ
 まず最初に取り上げるのが、朝鮮系無文土器である。朝鮮系無文土器とは朝鮮半島で当時使用されていた無文土器が日本で出土したものを言う。それらは朝鮮半島の本物とまったく見分けがつかないことから、朝鮮半島から持ってこられたものか、あるいは朝鮮半島からの移住者が自らの手で日本の地で作ったものである。しかし、その移住者たちも、日本で何世代も生活していく中で、彼らの作る土器が日本の弥生文化の影響を受け、土器の形も徐々に弥生土器に似たものになってくる。そうした土器は、擬(ぎ)朝鮮系無文土器と言われている。朝鮮系無文土器が出土すればその地は直接朝鮮半島との文化交流があった証明になるが、擬朝鮮系無文土器が出土した地でも間接的に朝鮮半島の文化に関わっていることを示している。
 日本の土器が、縄文土器から弥生土器へ変化するように、朝鮮半島でも土器文化には変遷がある。最も古いものは前期無文土器で、この土器は甕の口に連続的に孔があいていることから孔列文(こうれつもん)土器と呼ばれている。この孔列文土器は、豊前地方では北九州南部の貫川流域で多量に発見されていて、それは瀬戸内方向へも広がっていくが、京都平野方面へ南下した形跡はいまのところ見つかっていない。
 次に朝鮮半島では中期無文土器の段階に入るが、この段階の土器は胴の上半が壺、胴の下半が甕のような形をした樽型をした土器で、それが出土する代表的な遺跡名をとって松菊里(しょうきくり)(ソングンニ)型土器と呼ばれている。
 松菊里型土器は西日本を中心に、各地域で最初に水田稲作農耕が営まれた遺跡周辺から出土している。その分布は、福岡平野から筑紫平野にあり、海岸沿いを点々と山陰方面・瀬戸内方面に伸びていっている。そうした中で、今までは周防灘方面への広がりが見られなかったのであるが、苅田町葛川遺跡出土土器の中に、この松菊里型土器が含まれていることが判明した(図34)。
 
図34 葛川遺跡の松菊里型土器
図34 葛川遺跡の松菊里型土器(1/3)

 その土器は環濠から出土したもので、器高一五・四センチメートル、口径一一・四センチメートルを測り、松菊里型土器特有の樽型の胴部に短く外反する口を付けている。口が斜めに傾いていて、回転台を使用して作られていないのも特徴の一つである。器面は全部ていねいに磨かれていて、大きな黒斑がついている。この土器は在地の土器製作にも影響を与え、この葛川遺跡でも、器形や調整は良く似ているが、胴部に板付Ⅱ式土器に見られる沈線や連弧文などを付けた折衷型も現れている。
 葛川遺跡は京都平野で最初に作られた本格的な環濠であり、初期の農耕集落を近くに控えていることが考えられる。そうした遺跡で松菊里型土器を検出するということは、水田稲作農耕をこの地に携えてきた人々がどのような人だったのか考える上でも大きなヒントになる。
 朝鮮半島無文土器文化の最後の段階にあたるのが、後期無文土器である。後期無文土器には甕(かめ)・鉢・高坏(たかつき)などさまざまな器種があるが、甕はその形状が特徴的なことで知られている。甕の口には細い粘土紐を巻き付けている。このような後期無文土器は、朝鮮半島から出土したものとまったく区別のつかないものが西日本各地で出土している。どうやら拠点的に朝鮮半島から移住した集団が生活していた集落があったらしい。
 このような集団が作った土器を見よう見まねでこしらえた土器がある。このような土器も擬朝鮮系無文土器に含まれる。
 長井遺跡から擬朝鮮系無文土器が二点出土している(図35)。一見すると口の部分の丸みは全くといっていいほど朝鮮半島の無文土器にそっくりである。ところがその割れ口をよく観察してみると口の部分を上に伸ばして、それを折り曲げて口を丸くしていることがわかる。本当の無文土器であればいったん作った口の外側に径が約一センチメートルくらいの粘土紐を巻き付けている。出来上がった形が同じでも、それに至る作り方が違っているところが擬朝鮮系無文土器とする決め手となった。おそらく本物の無文土器を見た人がなるべくそれに似た形に作り上げたのだろう。
 今まで想像だにしなかった異郷の地の文化が海を伝って流入したことを示す一資料である。
 
図35 長井遺跡の擬朝鮮系無文土器
図35 長井遺跡の擬朝鮮系無文土器(1/2)