海に面した京都平野は、その海の先にある中国・四国地方との交流の窓口でもあった。人間の移動手段になるのは船である。辻垣畠田遺跡からは、船の舳先(へさき)とそれから出ている一本の櫂(かい)と考えられる線刻絵画が出土している(図36の1)。破片になっているので絵の主要部分は失われている。土器全体の形がわからないので絵の描かれた時期は不明であるが、報告では古墳時代初頭の壺の一部ではないかと指摘している。
この船らしい絵画を復元する良好な資料が小郡市津古三号墳から出土している(図36の2)。やはり古墳時代初頭に当たる時期の壺の肩に描かれた船である。舳先が上がって外洋を航行することが可能な準構造船と考えられている。弥生時代終末から古墳時代の初頭にかけて、このような船が海を隔てた遠隔の地にまで人と物資を運び新たな交流を培(つちか)ったのであろう。
対面する四国松山市でも船の描かれた土器が出土している(図36の3)。松山市樽味(たるみ)高木遺跡から出土した弥生土器に描かれた船はやはり舳先が上がって、船体からは幾本ものオールが出ている。このような準構造船が瀬戸内を行き交い、人と物を運んでいたのであろう。
京都平野は周防灘を介して北部九州弥生文化の情報が四国へ伝わる基点になっている。それは縄文時代晩期後半の凸帯文土器段階から見られるが、弥生時代前期末になると、石鎌(かま)・石戈(か)・紐孔や肩を有する大型石庖丁の磨製石器三点セットが東北部九州から四国北岸地域へ持ち込まれている(下條信行「弥生時代における束北部九州と四国北岸の関係」『瀬戸内海を介した交流――弥生時代の北部九州と四国』二〇〇二)。
周防灘の海流は複雑である。関門海峡は流れの速いことで知られるが、関門を周防灘から響灘へ潮の流れるときは行橋沖合いの流れは四国方面から豊前方面に向かう。しばらくすると今度は新門司沖を境に渦を巻くように、逆に豊前から四国に向かう流れとなる。そして、関門海峡の流れが反転して響灘から周防灘へ向かっても、しばらくは行橋沖の潮の流れはそのままであるが、しばらくすると再び四国から豊前へとその向きを変える。その速度は速いときで〇・八ノットにもなる(海上保安庁『周防灘潮流図』一九八一)。