京都平野の方から四国に伝わったものに周溝状遺構がある。周溝状遺構は集落の中にあって、方形、円形に溝を掘ってその内側にある台をその外の世界から隔絶させた祭祀(さいし)の場と考えられている。
福丸にある古代寺院椿市廃寺講堂の北東側で、弥生時代後期終末から古墳初頭にかけての周溝状遺構が一基発見されている。一辺六メートル、幅約一メートルの溝を隅丸方形に巡らし、北側の周溝内からは完全に復元される甕や壺などが溝底に並べられた状態で出土している。周溝状遺構は集落に伴う祭祀遺跡であるので、この周囲に同時期の集落があった可能性が強い。
周溝状遺構は下崎ヒガンデ遺跡にも二基発掘されている。そのうち一基は弥生時代後期後半のもので、半分しか調査されていないが隅丸方形の一辺七メートル以上のもので、もう一基は未掘にため詳しいことはわかっていない。
周溝状遺構は弥生時代前期末頃、突然、筑紫平野に出現しそれが各地に広まるのであるが、九州本土以外の地では唯一、四国松山平野に伝わる。
松山平野は中期末に文京遺跡に出現する。六・五メートル前後の規模で隅丸方形プランをしている。後期に入ると文京遺跡のほかに釜の口遺跡などでも現れるが、形状は円形プランに変わっている。
京都平野に周溝状遺構が発見されなかった時期には、松山平野の周溝状遺構は自然発生的に出現したことも考えられていたが、椿市廃寺や下崎ヒガンデ遺跡でも発見されて、豊前側でも今後の増加が見込まれる中で、松山平野の周溝状遺構発生にはやはり九州からの影響が無視できなくなった。