京都平野が瀬戸内航路の九州側の終着点にあったことは土器の流入によっても証明される。辻垣長通遺跡では大溝から内側に朱が付着した土器が多数出土した。
辻垣長通遺跡から出土した朱の付着する土器には、鉢・壺・甕などがあるが、このうち鉢は「広片口三耳鉢(ひろかたくちさんじはち)」と呼ばれる特殊な土器で、朱の精製や加工に関係するものと考えられている。この形の土器は、朱の産地として有名な徳島県若杉山遺跡の近くの、同県名東遺跡でも出土している。普通の鉢も片側に注ぎ口が付いている。この土器に付いた朱の分析者はこのような土器について、単なる朱の製造・精製・貯蔵に関するものではなく、朱を漆(うるし)や膠(にかわ)と混ぜ合わせるための土器ではないかと想像している(本田光子・成瀬正和「辻垣長通遺跡出土の土器に付着している赤色顔料について」『辻垣畠田・長通遺跡』一九九四)。
朱にはいろいろな種類、呼び名がある。水銀から作られる朱の正式な呼び方は、赤色硫化(りゅうか)水銀という。この硫化水銀は天然には辰砂(しんしゃ)として産出する。また水銀と硫黄(いおう)を化合させて作る人工的な朱の作成も可能であるが、天然水銀を自然界で入手することはかなり困難なので、弥生時代日本で入手された朱は、辰砂を磨りつぶして水に溶き、水こししたものと考えられている。辰砂がこの京都平野で産出された記録はなく、また地層学的にもその可能性は少ない。となると辰砂がいずこからか持ち込まれたものと考えられるだろう。
内面に朱の付着した土器はいずれも四国の土器と考えられるので、四国から海を越えて朱の入った土器が運ばれた可能性がある。
魏志倭人伝には、「賜……真珠・鉛丹五十斤……」とある。真珠は「真朱」のことで日本に中国から良質の朱がもたらされていたことがわかる。祭りに用いられた朱の入手を通して他地域との交流を見ることができる。