中国の史書に記された「日本」

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 古代中国の人々はいつの頃から「日本列島」およびそこに居住する人々のことを知るようになったか、また、逆に「日本列島」の人々が、異なる世界を意識し始めたのはいつのころからか。そのことは以後の列島社会にどのような影響を及ぼしたのだろうか。
 中国では現在の日本のことを古くは「倭(わ)」と記していた。その中国に対して「日本」の国号を初めて用いたのは大宝元年(七〇一)の遣唐使といわれている(吉田孝『日本の誕生』一九九七)。「倭」の起源は、現在私たちが使用すると同じ意味で用いた「我・吾」の言葉を文字化したもので、背の低い古代日本人を揶揄(やゆ)して同音の「倭」をあてた。あるいは当時の対外交渉の窓口であった「伊都国(いとこく)」(現福岡県前原市付近)の「伊」がやがて全体を表記する意味で用いられ、音の通じる「倭」と表記されるようになった。さらには「東夷は天性従順、三方の外に異なる」といった『後漢書』の記載からみて、中華思想と結びついて従順といった意味がある「倭」と表記するようになった、などの諸説がある(石原道博『新訂魏志倭人伝他三篇 中国正史日本伝(一)』一九五一/佐原真「日本人の誕生」『大系日本の歴史』一、一九八七)。その表記の起源はともかく、朝鮮半島の人々も同じ表現を用いて当時の日本を記し、豊臣秀吉の半島出兵を「壬辰・丁酉倭乱」と呼ぶなど根強いものがあった。
 また、古代日本においても『古事記』では「日本」を使用せず、一般に「やまと」を「倭」で表す。『日本書紀』では天皇号などを「日本」と記すが、なお「倭」を「やまと」と読ませる表記が多くみられる。
 さて、古代中国で最初に現れる「倭」は『山海経(せんがいきよう)』の
 「蓋(がい)国は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」
という記事である。「蓋(韓)国」と「燕」、「倭」の位置関係を記したものであるが、この『山海経』は戦国時代(紀元前四〇〇年頃~同二二〇年)から前漢に至る長期にわたって書き継がれた地誌であり、かつ現在から見れば空想上の怪物といった荒唐無稽(こうとうむけい)な内容が多いことなどから内容の信憑性(しんぴょうせい)に疑義がもたれている。
 また、後漢の王充(おうじゅう)(二七~一〇〇)による『論衡(ろんこう)』には、
 「周の時天下太平、越裳(えつしよう)白雉を献じ倭人鬯艸(ちようそう)を貢す」
とある。周は紀元前一二〇〇~七七一年に存在した古代国家で、越裳とは今のベトナム地域の一国、鬯艸とは香草の一種といわれている。この後長期間倭についての記載が現れないこと、何より記載された時期――日本でいえば縄文時代後期~晩期――に中国との交流を窺(うかが)わせる出土遺物がほとんどないことなどからやはりその信頼性は低いものとされている。
 次いで後漢の班固(はんこ)(三二~九二)の手による『漢書』地理志燕地の条にある
 「楽浪(らくろう)の海中に倭人有り、分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すという」
の記録がある。「歳時」以下は季節ごとに皇帝に拝謁し、貢物を献上していたとの解釈がされている。漢王朝は紀元前二〇二年に成立し、後に武帝(前一五六~八七)の時代に中央アジアから朝鮮半島に至る大帝国に成長した。その中で前一〇八年、朝鮮半島に楽浪郡などの四郡を設置して半島の大部分を直接統治したが、その後の出来事を記したものである。楽浪郡設置が当時の日本をして中国の先進文化に接する機会を飛躍的に高め、かつ漢王朝にも「倭」の存在を認識させる契機(けいき)となったと考えられている。後述するように日本列島では当時の外来系遺物が多く出土するが、特に北部九州地域では大陸に近い地の利もあって列島内で最も早くから、安定的に朝鮮半島ひいては中国大陸に由来する出土品が多く見られる。この班固の時代を確実に遡(さかのぼ)る遺物も多く出土していて、この記録の信憑性を高めている。倭に関する最も古い、かつ信頼性の高い文献と見なされる所以(ゆえん)である。
 前漢が滅びて後、短期間の新(しん)王朝(八~二五年)を経て後漢王朝が再び国土を統一する(二五~二二〇年)。『後漢書』はこの王朝の歴史を記した正史であるが、編纂は南宋の時代笵曄(はんよう)(三九八~四四五)の手になり、王朝滅亡後二〇〇年を経た記録である。後に述べる『三国志』に遅れることから当然ながらそれを参考とし、重複するような部分があるが、なかに『魏志』に紹介されない内容を含む。それが、
 「建武中元二年、倭の奴の国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬(いんじゆ)を以てす」(東夷伝倭の条)
 「中元二年春正月辛未、東夷の倭の奴国王、使を遣わして奉献す」(光武帝紀)
 「安帝の永初元年、倭の国王帥升(すいしよう)等、生口百六十人を献じ、請見を願う」(東夷伝倭の条)
などの記事である。建武中元二年は五七年、永初元年は一〇七年で、五〇年を経た出来事である。建武中元二年の記録は江戸時代に福岡市志賀島で偶然に発見された「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と彫り込まれた金印の存在によって証明されたと考えられている。その出土地点や出土状態の詳細は確認されていないが、多面的な研究からこれが漢帝国が東夷の王を是認して下賜したものであると認められるに至り、かつ出土地が現在の福岡市・春日市域を中心とする「奴国」の範囲に想定されるからである。『後漢書』百官志では帝国の直接支配が及ばない周辺民族に対して「国王・率衆王・歸義侯・邑君・邑長」の序列をもって対したことが知られ、「倭奴」の首長が最高位である「国王」として遇されたことが窺えるのである。ほぼ同時期の朝鮮半島南部の首長が「漢廉斯邑君」に叙されたのに比して、その扱いには特別なものがある。これは海の彼方の倭人を朝賀の儀式に参加させ、王号を与えることによって皇帝の徳の高さを殊更(ことさら)に誇示しようと図ったためであろう(岡村秀典「『漢委奴国王』金印の時代」『三角縁神獣鏡の時代』一九九九)。
 「極南界」の語句は著者が『魏志』を参考とし、そこにある「…次に奴国あり。これ女王国の境界の尽きるところなり」を取り違えたことによると考えられている。同書に「奴国」が二カ所記載されているからである。また、『後漢書』冒頭の「倭は韓の東南海中にあり、山島に依りて居をなす。凡(およ)そ百余国あり。武帝、朝鮮を滅ぼしてより、使駅漢に通ずる者、三十許国なり」という記事も『前漢書』および『魏志』を結びつけたもので、実態を把握したものでは無かろうという。
 「倭の国王帥(すい)升」の部分は中国や日本の古文献に、
 「倭面上国王師(し)升」(『翰苑』)
 「倭面土地王師升」(唐類函・辺塞部倭国の条所引の『通典』)
 「倭面土国王師升」(北宋版『通典』)
 「倭面国」(『釈日本紀』開題)
などと様々に記されていて、それぞれが複雑な系譜関係にあると考えられるが、「漢倭奴国王」の用例からみれば「倭の面土国」あるいは「倭の面国」であり、これは古代中国の発音や文字使用法から推して「イト(伊都)国」、「マツラ(末盧)国」のいずれかであり、考古学的な成果を考慮すれば「伊都国」の可能性が高いとされている(小田富士雄「初期筑紫王権形成史論」『東アジアの考古と歴史』中、一九八七)。すなわち、この五〇年の間に「倭国」の盟主が「奴国」から「伊都国」へと交替したと考えられるに至っている。当時の倭では覇権が特定の王統によって世襲されていたのではなく、なお複数の国々が主導権を争っていたことを示している。それは「帥(師)升等」という表現にも表れており、彼は国々の連合体を代表する立場であって、絶対的な王ではなかったことを思わせる。
 このように、前漢時代に無名の百余国が存在した倭国では、後漢の時代に奴あるいは伊都の首長と思しき人物が後漢王朝に「国王」として認められるまでに社会的発展が進行したことが史書から窺える。その過程では武力を伴った国々の統合・再編も頻繁に行われたことと思われる。そして通好を重ねる中で進んだ大陸文化への憧憬(しょうけい)は一層高まるとともに、対大陸交渉の主導権争い、ひいては後漢の権威を後ろ盾とした覇権を求める争いもさらに激化したことであろう。
 二二〇年に後漢王朝は滅んで魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代となる。この時代の歴史を記した書物が『三国志』であり、当時の日本のことが記されたのはその中の『魏志』東夷伝倭人条である。『三国志』は東晋(とうしん)の陳寿(ちんじゅ)(二三三~二九七)が著したもので、「倭女王卑弥呼(ひみこ)」が「景初二年(二三八、これは景初三年〔二三九〕の誤りであるというのが定説となっている)」に魏明帝に初めて使いを送って以降、正始八年(二四七)の遣使、その後の卑弥呼の死・台与(とよ)の擁立に至る外交・地誌を含む記録であるが、陳寿の没年と卑弥呼・魏王朝の通好との時間差は最大で六〇年ほどで、同時代史料といってもよいものである。このことも『魏志』の評価を高めている一因である。いよいよ邪馬台国・卑弥呼の登場となるが、卑弥呼が魏へ遣使するに至る事情をみておこう。
 後漢王朝が衰退して支配が緩む中で、一八九年に遼東郡太守に任じられた公孫度は、王朝から独立して朝鮮半島にあった楽浪郡などを支配し、後にその子の公孫康は楽浪郡の南に帯方郡を設置した。『魏書』韓伝には「これより後倭韓帯方に属す」とある。卑弥呼が「倭国大乱」を経て擁立されたのは一九〇年前後といわれ、倭国の安定には公孫氏の長期にわたる庇護があったのであろう。この公孫氏はやがて呉と結んだことから魏に滅ぼされ、その領地は魏のものとなった。景初二年八月のことである。卑弥呼が初めて遣使したのは翌三年のことで、難升米・都市牛利らは帯方郡へ六月に到着して魏皇帝への朝貢を伝え、十二月に都洛陽で明帝の拝謁を得た。公孫氏滅亡という体制変化を受けての素早い行動は卑弥呼が大陸の情勢をよく把握しており、かつ後ろ盾を失った国の安定に危機感を覚えたことを示していよう。
 『魏志』韓伝辰韓・弁辰条に、
 「国は鉄を出し、韓・濊(ワイ)・倭、皆従いて之を取る」
とあって、当時の最重要な鉄資源を朝鮮半島に依存していたという理由もあった。しかし、魏明帝の詔書には、
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し(中略)還り至れば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし」
とあり、女王の権威の保証、国の安定について魏の同意を得ることができた。この頃には「倭国」は東アジア世界の一員として行動し、認められていた。
 さて、邪馬台国の所在論争が問題となるのは、当時の倭国の発展段階を大きく左右するからである。それが北部九州にあった場合は狭い範囲で完結する社会にすぎず、やがて全国的に拡散する古墳文化の担い手であるヤマト政権との連続性がないことになる。かつては神武天皇が日向を発(た)って大和に都を置くに至る記紀神話の神武東征を、九州勢力が畿内勢力を征服したことの記憶を留めるものとの説があったが、考古学的に成立の余地はない。邪馬台国畿内説の場合は、北部九州から畿内地方に至る広範な地域が既に三世紀前半には倭国として政治的にまとまっていたこととなり、古墳文化との連続性もスムーズとなる。ただ、それ以前に華やかさを誇った、中国の記録に記された北部九州の国々がどのような過程を経て畿内勢力の影響下に下ったか、その経緯はやはり明らかとはなっていない。ただ、『魏志』に記される卑弥呼擁立の契機となった「倭国大乱」が重要な意味を持っているのだろう。