中期後半の早い時期以降に位置づけられる墓地から出土する宝器は内容が大きく変わり、朝鮮半島に由来する器物に替わって中国製銅鏡が主役となる。古くから文字を使用し、記録に長(た)けた国柄でもあるためにその使用時期を細かく決定できることや、日本では弥生・古墳時代前半期に最も多く出土することもあって我が国独自の年代決定材料を持たない該期の実年代考定や社会構造の変化を示すものとして最重要な資料となっている(図38)。
春日市須玖岡本遺跡では明治三二年(一八九九)、家を建てるために大石を動かしたところその下から甕棺が現れて大量の遺物が出土したが、祟(たた)りを恐れた人々によって別の場所に埋められ、やがて多くが散逸した。その後、昭和四年(一九二九)に京都大学によって本格的な調査がなされ、その報告書によってこの遺跡の評価は確固たるものとなった(京都帝国大学文学部「筑前須玖史前遺跡の研究」『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第一一冊、一九三〇)。この中で再確認された出土遺物は銅鏡三〇面以上、銅矛五口、銅戈一口、銅剣二口以上、ガラス製品(璧(へき)・勾玉・管玉)といったものであった。
また、前原市三雲南小路(みくもみなみしょうじ)遺跡では江戸時代の文政五年(一八二二)、農民が作業中に地下三尺ほどで銅剣・銅戈各一口と朱入りの小壺を発見し、その下から甕棺が出土した。当時の遺物は福岡市聖福寺に銅剣一口、銅鏡一面が残存するだけであるが、当時の福岡藩国学者青柳種信が『柳園古器略考』に詳しく図示していた。その後、昭和四九・五〇年(一九七四・七五)に福岡県教育委員会によって江戸時代の発掘地点が再調査され、新たな甕棺や豊富な副葬遺物を発見した(福岡県教育委員会「三雲遺跡 南小路地区編」『福岡県文化財調査報告書』第六九集、一九八五)。出土遺物の再整理を行った柳田康雄氏は江戸時代に発掘された一号甕棺には銅矛二口、銅鏡三一面以上、金銅四葉座金具八点、ガラス製品(璧・勾玉・管玉)が棺内にあり、新たに発見された二号甕棺には銅鏡二二面以上、硬玉製勾玉、ガラス製品(勾玉・垂飾)が副葬されていたと復元した。古い時期の発見あるいは大きく破壊された状況での調査であったため詳細が不明である点は非常に惜しまれるが、この両遺跡の鏡の出土数は古墳時代を含めても最多の部類に属するとともに、質・量の両面から中国の出土品と比較することによって弥生時代の実年代を考える上で、また社会の発展段階を推測する上でも大きく貢献している。これら三基の甕棺墓から出土した銅鏡群は紀元前一世紀中頃の年代を示し、弥生時代の区分では中期後半の早い段階である。
前漢鏡は弥生時代中期に属する遺跡としては山口県下関市地蔵堂遺跡を東限とし、長崎県対馬ガヤノキ遺跡・同櫛エーガ崎遺跡、佐賀県唐津市田島遺跡・神埼郡東脊振村二塚山(ふたつかやま)遺跡・北茂安町六の幡遺跡、福岡県前原市三雲南小路遺跡・福岡市吉武樋渡(ひわたし)遺跡・同有田遺跡・同丸尾台遺跡・春日市須玖岡本遺跡・夜須町峯遺跡・筑紫野市隈西小田遺跡・同二日市峯遺跡・甘木市栗山遺跡、そして飯塚市立岩堀田遺跡の一六遺跡で確認されるだけで、総数は一一〇面を超えるといわれる(高倉洋彰「倭の国王と漢」『金印国家群の時代』一九九五)。これらの分布は朝鮮半島系の武器形青銅器の分布範囲に比べて著しく狭く、それら中で最も価値が高いと見なされていた細形銅矛とほぼ重なることから、銅鏡は至高の宝器として銅矛に取って代わったと考えられている。初期の朝鮮系青銅器は玄界灘沿岸の集団が入手・製作し、配布あるいは交易を経て周辺地域へもたらされたが、銅鏡も同じように扱われたのである。また須玖岡本・三雲南小路の二遺跡のみが銅矛を含む複数の国産武器形青銅器と中国製銅鏡を同時に出土し、ほかの遺跡では鉄製武器を伴うことが多く宝器の組合せの転換期をも示す(表1)。この変化は紀元前一〇八年に前漢により朝鮮半島に設置された楽浪郡などの存在が促したものと考えられている。『漢書』に「楽浪の海中に倭人有り」とあるように、倭は楽浪を起点として認識されていた。
銅鏡以外では古代中国の貨幣であった銅銭が北部九州から関西地方に至る広い地域で出土している。北部九州のように甕棺墓と青銅器の組合せといった実年代を推定する材料をもたない関西地方においては、古代中国の銅銭が弥生時代の年代を考える上で重視されていたが、遺構から出土する例が乏しく必ずしも有効な手段となりえていない。また、銅銭は銅鐸などの国産青銅器の原材料の一つとも考えられているが、銅鐸を鋳造するほどの量の一括出土例はない。